×

連載・特集

緑地帯 川野祐二 エリザベト音大と歩んで③

 1984年に横浜から転居し、エリザベト音大での勤務を始めるまで、恥ずかしながら私は被爆の実相をほとんど知らなかった。父は長崎出身であったが、原爆を含め戦争中の体験を語ることなく亡くなった。また学校で平和学習を受けた記憶もない。

 広島に来てからは、機会があるたびに原爆資料館を訪れ、教会の平和行事などに参加して、被爆体験を聞き、関係者の著作を読んだ。

 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の企画展「わが命つきるとも―神父たちのヒロシマと復活への道」をご覧になったでしょうか。原爆投下時、幟町教会にはイエズス会の主任司祭ラサール神父を含む4人のドイツ人神父がいて、傷を負いながらも奇跡的に生き延びた。医学を学んだアルペ神父らも加わり、被災した人々を長束修練院で助け、献身的に治療にあたった。このことが体験記と映像により丁寧に説明されていた。

 ラサール神父は全ての戦争犠牲者の追悼と慰霊、そして恒久平和を祈念する記念聖堂の建設を発案して実行に移した。国内外の教会関係者、篤志家および広島市民に資金協力を仰ぎ、ローマ教皇ピオ12世からも支援を得た。聖堂建設が決定した時、ゴーセンス神父は、西洋中世のゴシック様式の大聖堂の近くに、教会典礼に奉仕する音楽学校が設立されたように、自分も学校をつくり、グレゴリオ聖歌やパイプオルガンなど宗教音楽を重視する音楽教育を実践することを決意した。神父の小さな音楽学校は大きく成長し、歴史と伝統はしっかりと受け継がれている。 (エリザベト音楽大理事長・学長=広島県府中町)

(2022年2月23日朝刊掲載)

年別アーカイブ