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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 特別論説委員 佐田尾信作 ある被爆記者の遺言

「私」を取材することだった

 作家で被爆者の中山士朗から、新著のエッセー集「青き淵から」(西田書店)が届いた。かねて書評などを通じてやりとりのある人。県立広島一中(現国泰寺高)3年の夏、勤労動員されていた広島市内の鶴見橋付近で被爆し、顔の左半分などにケロイドを残す大やけどをした。

 中山は「生き残りし者」ゆえの苦悩と苦闘を表現してきた。自身もまた「生きていて良かったですね」と慰められると「あの時死んでいた方がどんなにましだったか」と思うくだりが新著にある。「真に強い人だったのですね」という感想文が届くと「むしろ不承不承生きて来た」。ミレーの名画「落穂拾い」にも似た心持ちで、死者と会話を交わしながら書き続けてきたのだという。

 中山より1年早い1929年生まれの山野上(やまのうえ)純夫は「生き残りし者」の苦悩をくみ取ってきた人だったといえよう。年明けに訃報に接した。「記者生活六十年 ふるさと暦」(洛西書院)などの著書と、10年以上にわたってやりとりした手紙や電子メールを今読み返している。

 広島高等師範(現広島大)付属中4年の夏、東千田町にあった校舎で被爆。戦後は広島支局を振り出しに毎日新聞記者として働き、晩年は京都の宗教専門紙・中外日報で論説の筆を振るう。「原爆市長」浜井信三らの肉声を聞いた復興期の広島市政の生き字引であると同時に、浄土真宗からカトリックまで宗教にも通じた人。短歌教室の世話を長く続けたほか、作詞や作曲も手掛けた。

 山野上が自身の被爆体験を語り始めたのは2008年のこと。高知県の生まれで広島には係累がなく、けがもしなかったため、被爆者の真の苦しみ、悩みを語る資格がないと考えていた。とはいえ「ヒロシマの煩悩」と自ら名付けたものから目を背けることもなかったのである。

 生前の山野上が気に掛けていた一人が、広島第一県女(現皆実高)1年の夏に被爆した歌人梶山雅子である。あの日、梶山は虫垂炎の手術で勤労作業を休んでいて助かる。しかし、原爆死没者遺族と「生き残りし者」との間のわだかまりは長くあった。1977年の三十三回忌の慰霊祭の折に、亡き親友の母親から声を掛けられたことを梶山は3首の歌にした。うち1首をここに引く。

 〈「全滅のクラスと聞いておりました」怒りを秘むる友の母の目〉

 山野上は生と死は紙一重であることを知っていた。「原爆が落ちると知ってずる休みをしたのではない。そのことはよくよく分かっているはずなのに、(人は)生存者に素直な心で向き合うことができない」と著書で吐露している。決して誰かを責める文意ではない。逃れられぬ煩悩あるいはタブーに目を向け、そこから再出発しようという呼び掛けだ。梶山もまた、それが自らの「業」であると証言活動を続けてきた。

 山野上は原爆報道の在り方についても幾度となく意見を書き留めている。ひたすらスクープを競い合うメディアへの警句といえよう。

 自身は広島高師付中「科学学級」の1期生。科学学級は戦局打開の国策として生まれたが、敗戦後数年で閉じ、資料も原爆で焼失した。戦時下の「英才教育」が戦後はタブー視されたのか、忘れられていた。そこへ本紙編集委員だった大牟田稔(後に広島平和文化センター理事長)が友人である山野上に「新聞社の壁を越えて協力してもらえないか」と頼み、79年に12回にわたる連載「科学学級の31人」を実現させた。

 山野上は第三者の目による取材を喜び、なぜ自分たちは疎開しないで広島に残り被爆したのか、積年の疑問も解けたとつづる。50歳にさしかかった2人の記者が、今を逃してはなるまい―と思い立ったことが唯一無二のルポを今に残したのだ。

 「ヒロシマを取材することは私自身を取材すること」という山野上の言葉をかみしめる。彼が駆け出しの頃はペンを持つ側にも被爆者がいた。血の通った報道とは何か、皆で探し求めた。原爆報道は引き継がれてはいるが、いかなる手触りが今あるのか。難しい時代を後進に託し老記者は旅立った。(文中敬称略)

(2022年2月24日朝刊掲載)

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