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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <7> 梁田正直 死刑 蜂起に加わらずとも

 明治11(1878)年の竹橋事件で死刑になった岡山県の山本丈作と鳥取県の岩本久造は近衛砲兵大隊の馭卒(ぎょそつ)である。山本は兵営を抜け出して密談し、蜂起の決め事を他の隊員に伝えていた。

 一方、退院直後の岩本は知らぬ間に血判状に代印を押されたが、仲間を裏切らなかった。鳥取市内の旧立川村の出身。山本と同じく農家出身とみられ墓や遺族は不明である。

 近衛砲兵隊員二百余人の実に9割以上が反乱に加わった。指導者のいない横軸的な結集だった。

 中国地方出身で死刑に処せられた残る1人の梁田正直の場合、少し事情が異なる。市ケ谷にあった東京鎮台予備砲兵大隊で下士官に当たる曹長だった。今の米子市出身の士族で23歳にして妻帯していた。

 近衛砲兵隊員から蜂起への参加を誘われた鎮台予備砲兵隊員たちは上官の梁田に相談した。西南戦争死傷者の扱いや賞典がないことに梁田も不満だった。企ての理由などを探りたいと同じ鳥取出身の内山定吾少尉に申し出て了解を得た。

 上官たちの賛同を得たと隊員らは信じ、近衛砲兵側と密議を重ねた。途中で尻込みし始めた近衛歩兵に比べ、意気盛んな鎮台予備砲兵は火薬を奪う役目も引き受ける。

 ところが東京鎮台予備砲兵大隊長の岡本柳之助少佐の謎めいた行動が命運を分けた。政体変革の野心を漂わせる人物で、暴発前日の8月22日に内山から強訴の企てを聴く。その折は制止せず、23日夜に突然、郊外の王子への行軍を隊兵に命じた。

 行軍で蜂起現場から離れた鎮台予備砲兵は反乱に加わっていない。しかし暴挙にくみしようとしたとして明治12(79)年4月、梁田ともう一人の下士官に死刑判決が下った。

 梁田の墓は、米子でなく鳥取市栗谷町の興禅寺にある。事件100年後の1978年にできた「竹橋事件の真相を明らかにする会」関係者が翌年、電話帳を手掛かりに同市内にいた末妹の孫と墓を突き止めた。

 それから40年余り。墓を世話する人はいなくなり、今は墓石のみが無縁墓を寄せた永代供養塔の一角に埋め込まれている。昨年春、縁者という男性から寺に電話があり、それきり連絡はないという。(山城滋)

岡本柳之助
 1852~1912年。元和歌山藩士。西南戦争に呼応する挙兵計画で投獄された同郷の陸奥宗光と深い関係があった。明治28年に朝鮮での閔妃(みんぴ)暗殺にも関わった。

(2022年2月24日朝刊掲載)

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