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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <8> 内山定吾 革命肯定論 隊員たちを鼓舞

 なぜ蜂起したのか。明治11(1878)年8月23日夜の竹橋事件で捕らわれた兵士たちの自供はまちまちだったという。西南戦争の恩賞の遅れや給与減額にとどまらず、徴兵の制を議論し、自由民権論にわたるものもあったとされる。

 言論活発な首都である。民権論は兵たちにも届き、進歩的な将校もいた。近衛砲兵隊が蜂起する2日前、東京鎮台予備砲兵大隊の内山定吾少尉はフランス革命について営舎内で隊員に講義した。「革命とは政府の不善なるを他より起(た)ちて改革するものにて不良のことにあらず」と。

 機能している政府をみだりに覆そうとする一揆は「不良のことなり」とも述べた。しかし、少尉の革命肯定論は近衛砲兵隊にも伝わり、待遇問題にとどまらない大義として隊員たちを鼓舞したことだろう。

 内山は鳥取藩士家の生まれで26歳。西南戦争の田原坂で負傷し、熊本城に着けずに昇給できなかったことを不公平と思っていた。フランス政治史に通じ、近衛砲兵の蜂起情報を得た下士官が相談相手に選んだように部下からの人望が厚かった。

 ただ、上官の岡本柳之助大隊長を同志と信じた点に内山の甘さがあった。当日、岡本は蜂起現場から遠ざかる想定外の王子行軍を命じる。岡本は獄中での自殺未遂を経て裁判では官職を奪われただけで済んだ。

 内山は勾留中に精神を病み、明治15(82)年5月に無期流刑の判決が出る。明治22(89)年に憲法発布時の大赦によって釧路監獄から出所した。同年、同志や遺族らと「旧近衛鎮台砲兵之墓」を建てた内山の心中はいかばかりだったか。

 自死1人を含む事件落命の兵56人を悼むその墓は今、青山墓地にある。ノンフィクション「火はわが胸中にあり」で事件を掘り起こした沢地久枝氏撰文(せんぶん)の碑が傍らに立つ。

 内山の弟である小二郎も陸軍軍人で、兄に代わって家督を継いだ。大正天皇の侍従武官長を務め鳥取県でただ一人となる陸軍大将に栄達した。兄の内山は出所の17年後に亡くなるまで事件について沈黙を守り通したという。

 鳥取市上町の観音院には、大正6(1917)年に小二郎が建てた内山家先祖之墓がある。(山城滋)

内山定吾
 1852~1906年。鳥取藩士家の出身。東京鎮台予備砲兵大隊で兵器担当の少尉。無期流刑判決の理由としては、暴動を起こした兵卒らを鼓舞扇動し、弾薬庫の弾薬請求に至るなどとある。

(2022年2月25日朝刊掲載)

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