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連載・特集

広島世界平和ミッション 米国編 第3部 歴史へのまなざし <5> 思い出の病院 和解と救済の精神脈々

 「これが私よ」。在米被爆者の笹森恵子さん(72)=広島市中区出身=は、写真を指さした。添えられた日付は一九五五年五月十日。被爆した女性たちがニューヨークのマウント・サイナイ病院に到着した日だ。三十一―十六歳の二十五人の最前列に、小柄な笹森さんの姿があった。

 病院付属の医科大の図書館。貴重な写真のほかに、当時、病院が発表した報道用の説明文や一年余にわたって治療を受けた女性たちを自宅に受け入れたホストファミリーの住所録などもそろう。

 フィリップ・ランドリガン教授(63)は「和解の精神を若い医師に伝えるために、被爆五十周年から当時の関係資料を整理し直した」と説明する。治療に当たった医師は既に全員が亡くなり、他の職員も高齢で病院には残っていない。

無償で治療■

 渡米治療計画は、当時流川教会(広島市中区)の牧師だった故谷本清さん(一九〇九―八六年)の要請を受けた「土曜文芸評論」主筆の故ノーマン・カズンズさん(一九一五―九〇年)が米国内に呼び掛けた。「日米和解の好機だとカズンズさんは思ったようだ」とランドリガンさんは振り返る。同病院は無償で治療を引き受けた。

 笹森さんは病院側のスタッフにあらためて、自らの歩みを語った。広島女子商一年の時、建物疎開中に爆心地から約一・六キロ離れた中区鶴見町付近で被爆。「私がこんなになったでしょ。戦後、町でよく他人にちらちら見られたんよ」。笹森さんは自らの顔を、指の曲がった右手でなでた。

 「姉が『なにジロジロ見よるん』いうて、食ってかかるんよ。恥ずかしくてねえ…」。そんな体験を広島でしてきた笹森さんを、医師や看護師、ホストファミリーら米国の人々は優しく迎えた。

 「こっちの人は、なぜ自分がこんな姿になったか理由を聞いてくる。原爆のことを話したら『ごめんなさい』と言うてくれて。気が楽になった」

 笹森さんは治療後に帰国したが、看護師を夢見て五八年に再び渡米。米国市民が被爆者の親代わりになる「精神養子運動」を提唱したカズンズさん自身の精神養子に。「住みやすい」米国で暮らす決意をした。

 「救済の必要がある人を助ける」。それが一八五二年、ユダヤ系移民の救済を目的に設立され、今ではニューヨークで二番目の規模を誇るこの病院の哲学である。

市民が支え■

 その精神は今も脈々と受け継がれる。病院ではホロコーストの生存者たちや米中枢同時テロの被災者の心身のケアを無償でしている。医師や医学生をイラクやアンゴラなどの世界の戦地、紛争地域にも派遣。医師が申し出れば、職員の身分のままボランティアとして海外へ行ける。

 「ただ、医師の数は少なく、戦争は多い」と、ランドリガンさんは残念そうに言った。

 津田塾大三年の前岡愛さん(20)が「和解を進めるには、どうしたらいいですか」とランドリガンさんに尋ねた。即座に彼は「困っている人々の元へ出掛けて、面と向かうことです」と答えた。

 笹森さんを治療した整形外科医の故アーサー・バースキーさんはベトナム戦争中の六九年、サイゴン(現ホーチミン)に整形外科センターを設立。七五年、北ベトナムに制圧されるまで、解放戦線側を含めて子どもたちの治療を続けた。

 第六陣メンバーは米国行脚を通じて「和解の余地」を残さない米政府の強硬な姿勢に触れた。一方で旅の終わりに、身をていして和解に努める米市民がいることも知った。

 訪問後、タクシーの窓から思い出の地を見つめながら笹森さんはしみじみと言った。「アメリカに来てよかった」。その姿にメンバーは「どんな状況の中でも市民同士の和解は進められる」という希望を見いだした。(文・岡田浩一 写真・松元潮)=米国編第3部おわり

(2005年6月24日朝刊掲載)

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