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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <9> 軍人訓誡 仏風の自由の芽を摘み取る

 椿山荘(ちんざんそう)(東京都文京区)の庭園は昨年12月初め、散り際の紅葉狩り客でにぎわっていた。庭造りを趣味とする山県有朋が故郷萩を念頭に谷筋へ配したひょうたん形の池が人気スポットである。

 西南戦争の翌明治11(1878)年8月の竹橋事件は、戦功への恩賞が中尉以下には出ないことへの不満が背景にあった。大官は別世界と言うべきか、戦後に740円という高額年金を授与された山県は目白の椿山に1万8千坪の土地を求めた。

 作庭に頭を巡らせるのと並行し、山県は陸軍卿(きょう)として「軍人訓誡(くんかい)」の文案を練る。陸軍省出仕の万能人、西周(あまね)に草案づくりを委ねた。

 幕府時代からの流れで陸軍はフランス式を採用し、明治5(72)年春に本国から教官団を招いた。モデルにしたその徴兵制は、革命を経て参政権のある主権者の国民が果たす義務だった。憲法も議会もない日本の国情と隔たりはあったが、フランス式は華やかな軍服とともに一定に自由な空気を兵営に吹き込む。

 後の陸軍のように問答無用で服従を強いる上下関係は希薄で、不平や不満も言い合えたようだ。民主的なフランス式と義務を押しつけるだけの徴兵制の矛盾が、西南戦争をきっかけに噴き出したのが竹橋事件だったとも言えよう。

 山県陸軍卿名の軍人訓誡は竹橋事件判決前の明治11年10月12日に配布された。今の陸軍を「外形は強壮になっても内部の精神はまだ充実していない」と評す。軍人精神として忠実と勇敢、服従を挙げ、大元帥である天皇への忠実を求めた。

 「軍人たる者は世襲でなくとも武士であり、忠勇を旨とすべき」とのくだりもある。武士を「世襲坐食(ざしょく)」と指弾した6年前の徴兵告諭からの手のひら返しである。西南戦争で武士解体が完了して、封建の武士道徳を安心して説けるようになった。

 天皇の神聖化を徹底し、「御容貌の瑣事(さじ)も言ってはならぬ」とは近くで接する近衛兵を念頭に置いているのだろう。「朝政を是非し、憲法を私議」し「時事に憤慨し、民権など唱え」ることを厳しく戒めた。

 兵舎からフランス風の自由の芽を摘み取り、絶対神聖な天皇の下に軍を置くのが狙いだった。(山城滋)

フランス人教官団
 マルクリー中佐ら将校15人が来日。山県陸軍大輔(当時)は兵制改正、将校教育、兵器火薬製造などについての指導を依頼し、「日本帝国陸軍の基礎は今日より確立を期す」と述べた。

(2022年2月26日朝刊掲載)

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