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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <10> 天皇の軍隊 密接な関係うたう軍人勅諭

 既定路線だったフランス式軍制の導入に山県有朋は従うが、本心では王権が強大なドイツ式を手本にすべきだと思っていた。長州閥後輩の桂太郎を明治8(1875)年からドイツで軍研究に専念させ、軍制改革への布石を打つ。

 西南戦争後の近衛兵たちの不満は承知していたが、仮皇居門前にまで山砲を引き出す蜂起は想定を超えていた。明治11(78)年8月23日夜の竹橋事件は陸軍卿(きょう)山県の威信を大きく傷つけた。

 貴族趣味的な椿山荘(ちんざんそう)整備への反感もあってか、将校の間で山県についてのいろんな議論がうわさに上った。病気療養に追い込まれた山県に、内務卿の伊藤博文らが手を差し伸べる。同年12月、陸軍省から独立して天皇と直結する参謀本部の初代本部長に山県は就任した。

 参謀本部は指揮系統が混乱した西南戦争を教訓に創設し、桂がドイツで学んだ軍政・軍令の分離が実現した。これ以降、山県―桂ラインでドイツ軍制の導入が進む。

 明治13(80)年には国会開設請願運動が勢いを増した。請願を拒む政府対応を新聞で知った東京鎮台の歩兵伍長が憤り、仮皇居門前で切腹未遂事件を起こす。自由民権運動に染まらぬよう陸軍卿名で出した「軍人訓誡(くんかい)」の未徹底を山県は思い知る。

 訓誡は将校向けで難しい漢文調だった。それに代わり天皇が一般兵士に直接語りかける勅諭(ちょくゆ)の下賜を山県は内奏し、原案作りに乗り出した。西周(あまね)の草稿に山県と参事院議官の井上毅(こわし)が手を入れ、東京日日新聞の福地源一郎が平易な文章にした。

 明治15(82)年1月発布の軍人勅諭は、「朕(ちん)は汝等(なんじら)軍人の大元帥であるぞ」と天皇と軍人の密接な関係をうたった。儒教的な封建秩序を強調し、軍人に求めた五ヶ条の筆頭は「忠節」である。

 「世論に惑わず政治に拘(かか)わらず只々(ただただ)一途に己が本分の忠節を守り」と説く。そして「死は鴻毛(こうもう)(羽毛)よりも軽しと覚悟せよ。其(そ)の操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」と畳み掛けた。

 軍人は勅諭の奉読を課せられ金科玉条となる。天皇と国のために鴻毛よりも軽い命を捨てさせる「天皇の軍隊」の誕生である。(山城滋)

桂太郎
 1848~1913年。萩の藩士家に生まれる。陸相や3次にわたり首相歴任。山県の後継者と目されたが、後には対立した。

(2022年3月1日朝刊掲載)

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