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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <11> 権威と権力 統治の柱に天皇 信念の戦略

 山県有朋は大切と思うことを軍事作戦のように慎重に検討して実行に移した。明治10年代の重要テーマは天皇直結の軍隊づくりだった。

 文明開化が叫ばれた明治初年、先進技術とともに欧米から流入する民主思想を山県は警戒した。早くも明治2(1869)年、訪欧先から木戸孝允(たかよし)へ手紙を書く。欧州では共和政を望む潮流が広まり「英国でさえ王威は地に落ち嘆かわしい」と。

 山県の尊王思想はどこから来ているのか。国学に通じた父や師吉田松陰の影響もあろうが、単なる天皇崇拝とは異なる。近代化に伴う民心の揺らぎに対し、統治の柱として絶対的権威が不可欠との戦略的思考が信念の域に達していたようだ。

 下級武士の出身ゆえか負けん気が強く、長州藩で尊王志士として頭角を現す。武士に農町民も加わる奇兵隊で軍監として兵を束ね、場数を踏んだ。下関戦争で敗れた欧米列強軍の戦法を取り入れ、幕府の長州征伐軍との決戦に備えた。

 奇兵隊などの諸隊は慶応元(65)年、藩の実権を握った幕府恭順派との内戦を制した。戦のさなか、恭順派が世子(せいし)(藩主跡継ぎ)を戦場に出馬させるとの風聞が伝わる。割腹して謝らねばと井上馨たちはおびえた。藩公毛利氏への絶対忠誠が武士に求められた時代である。

 山県は違った。「洞春公(毛利元就)の霊碑を押し立てて進めばよい」と言い、洞春公神霊と大書した旗まで準備する周到さ。権威を相対化して利用する権力者のすごみを既に持ち合わせていた。

 後の王政復古で万世一系の天皇が絶対的権威となる。天皇の名の下に、薩長の下級武士たちは廃藩置県や徴兵令を断行できた。

 山県は自由民権運動を敵視した。民権増長は天皇の下の国家を危うくすると考えたからだ。天皇権威の確立は自らへの権力集中と重なった。強大な派閥を築いて83歳まで生き、明治大正の政界に君臨した。天皇直結の軍隊は山県の死後、軍国主義勃興の主体となる。

 同じ軍人政治家である西郷隆盛をかつて山県は敬愛した。国民的人気の点で対照的な両者の違いは、「無私」の精神の濃淡にあったと言えようか。(山城滋)

山県と派閥
 明治30年代、陸相ポストを占めた桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅は長州出身の山県系。官僚では政党に批判的な平田東助、清浦奎吾、芳川顕正ら長州以外の出身者も山県派を形成した。

(2022年3月2日朝刊掲載)

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