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知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態 第4部 同盟国の重荷 英国 <4> 民間契約 戦争年金の資格なし 腎透析で命つなぐ

 「このひもを引っ張ると看護婦に連絡できるんだ」。一九九一年の湾岸戦争に民間人として加わったポール・コナリーさん(37)は、生活保護世帯のお年寄りや病人らが住む集合住宅の一室で、天井から下りたひもに手をかけ、弱々しい笑いを浮かべた。

通信業務で湾岸へ

 「昨年の九月から週三回、近くの病院で腎臓(じんぞう)透析を受けている。でなければ、とっくに死んでいただろう」。二の腕の浮き出た静脈の注射痕が、痛々しい。

 ロンドンの中心部から南西へ車で約一時間。市営の集合住宅があるセント・ジョーンズ市は、彼の故郷である。中学を卒業し、十六歳で通信関連会社に入社。軍事関連の通信システム技術者として腕を磨いた。

 戦場で通信システムが機能するかどうかは、軍の作戦にかかわる生命線である。高温の砂漠地帯での実戦使用は初めての経験。陸軍との契約下にある会社を通じて、コナリーさんに白羽の矢が立った。「命への不安がなかったと言えばうそになるけど、OKしたよ」

 戦場で使う通信システムについては、八〇年代後半からドイツ各地にある英軍基地で扱っており、精通していた。だが中東の自然条件は、戸外にある通信機器にとって、予想をはるかに超えて過酷だった。「コンデンサーを冷却するのに常にファンが回っているんだ。かぶった砂ぼこりを圧縮空気で吹き飛ばさないとすぐ故障につながってしまう」

体力続かず職失う

 一日の仕事を終えると顔も体もほこりだらけ。ストームに襲われることもあった。戦線が拡大するにつれサウジ、クウェート、イラクを何度も通った。「イラク兵のむごい死体もたくさん見てしまったよ」

 戦闘終結から約三カ月後の九一年五月に帰国。そのころから体調を崩し、七月には元の会社を辞めた。「とにかく体が疲れてエネルギーが出ないんだ」。その後、別会社に就職したが、頭痛が激しくなるなど体調は悪化するばかりだった。

 九三年、腎臓の生体検査を受け、腎炎と診断された。コナリーさんが、劣化ウランという言葉に初めて接し、湾岸戦争退役兵の間に腎臓障害が多いと知ったのは九四年のこと。「新聞記事でね。劣化ウラン粒子を体内に取り込むと、放射線の影響だけでなく、毒性の強い重金属汚染が腎臓などの機能を侵してしまう恐れがある。そんなことが書いてあった」

 戦場にいる間、彼は環境に放出された汚染物質はすべて吸入してしまったと思った。民間人ではあったが、国防省と掛け合い血液検査やレントゲン検査を受けた。「医師は病気は認めたよ。でも『湾岸戦争には一切関係ない』のひと言。冷たいものさ」

 体力が続かず、九六年に仕事をやめた。ローンが払えずに家を失い、五年間一緒に暮らした彼女も去った。ホームレス生活を救ってくれたのは、家庭を持つ姉だった。担当医の市への手紙で、三カ月後に現在の住居があてがわれた。

 同じ年に、退役軍人との交流で知ったカナダや米国の専門家に尿の分析をしてもらった。「劣化ウランが含まれている兆候はあるけど、尿にタンパクが出過ぎてきれいに分離できない。どちらからも同じような結果が届いてね…」

「絶望」抱えて生活

 軍隊勤務での傷害や疾病により、退役軍人に支給される戦争年金を軍に請求したが「資格がない」と却下された。今は週七十ポンド(約一万一千五百円)の生活保護費が唯一の収入である。

 「できれば腎臓移植を受けたいし、真実を明かすために法廷でも争いたい。でも、もう希望は抱かないことにしている」。コナリーさんは、寂しい笑い声を上げた。「ぼくは笑うほかないんだよ。でなければ泣くしかないものね…」

 心の奥深くに「絶望」を包み込んで一日一日を生きるコナリーさんに、慰めの言葉もなかった。

(2000年6月6日朝刊掲載)

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