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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <12> 啓蒙所から学制へ 功利的な立身出世主義 前面

 明治4(1871)年7月に廃藩置県を断行した政府は、納税と兵役そして教育の義務を国民に課した。税は地租に偏りすぎ、徴兵制は抜け道が多かった。権利が伴わない義務の押しつけは反発を招くが、近代国家への歩みが始まる。

 義務教育は明治5(72)年8月に学制を発布、準備ができた所から小学校を開設した。おそらく全国で最も早い立ち上がりを見せたのが小田県(現在の広島県東部と岡山県西部)だろう。

 学制発布時、啓蒙所(けいもうしょ)と名付けた県内83カ所の教育機関で5095人が学んでいた。7~10歳が対象で無月謝。発達段階に応じた3等級に分けて読み書き、そろばんから地理、歴史まで教えた。

 すべての児童へ平等に教育を授ける場を―。福山藩時代に粟根村(現福山市加茂町)の医師窪田次郎が提案して藩ぐるみで取り組む。住民がコメなどを持ち寄って基金とする手弁当方式。明治4年2月の第1号設置から1年半で急速に広がり、教師の養成所も設けられた。

 学制発布の2カ月後、小田県の矢野光儀権令(ごんれい)は啓蒙所を小学校とみなす告諭を出す。その中に、勉強の目的は人間至楽の境地である自主自由の権を獲得するため、とある。

 殖産興業と富国強兵の国策に沿った学制は功利的な立身出世主義を前面に打ち出した。それに比べ権令告諭のなんと格調高いことか。

 窪田は五箇条御誓文の「万機公論ニ決スベシ」の実現に向け、下から民意をくみ上げる民撰(みんせん)議院制度を構想した。その担い手育成の期待を啓蒙所に寄せただけに、学制発布を聞いて「心算呆然(ぼうぜん)」としたという。

 啓蒙所は豪農層はじめ地域民衆の力で実現した。それに対し全国画一の学制は学費の一律負担を当然とする上からの制度。農村では「無用の物入り」と嫌われ、明治6(73)年の北条県(現岡山県北部)の血税一揆では小学校が標的となる。

 福山市御幸町の神社脇に「下岩成啓蒙所跡」との石柱がある。学制移行で下岩成小学校となるまでの1年余り、近くの寺院住職が子どもたちを指導したという。地域の歴史を埋もれさせまいと同町郷土史研究会が1999年に建てた。(山城滋)

学制
 小学8年(下等、上等各4年)、中学6年(同各3年)、大学の段階を定め、小学校は国民すべてが就学とした。教育理念の柱として①立身出世主義②四民平等③実利主義的な学問観―があり、欧米モデルのカリキュラム編成だった。

(2022年3月3日朝刊掲載)

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