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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <13> 遠い皆学 小学校創設 農家に負担重く

 明治10年代の廿日市市地御前には小学校のほかに手習い所があった。小学校が創立された明治6(1873)年生まれの女性の話が地御前小百年誌に載っている。

 「学校にはぎょうさんお金を持って行かにゃ入れなんだ。兄や弟たちは男じゃけえ学校へ行け、女は行かんでもええいうて。貧しい家の者や女は手習い所へかようた。いろは四十八文字を習うて、その後はアイウエオと漢字よ。漢字を習う人はあんまりおらんかった」

 学制が明治5(72)年8月に発布され、翌年から各地で小学校の創立が本格化する。寺を校舎に代用した地御前のようなケースが多かった。同市平良では明治7(74)年、村民が労力奉仕で速谷神社東側に46平方メートルの校舎を建てた。

 費用の多くは地元負担で、授業料を取ったり貧富に応じ住民に寄付させたり。子どもの働きを当てにする農家には余計な負担増だった。女子に教育は無用との考えも根強く、国民皆学は建前でしかなかった。

 明治10(77)年の広島県の小学校就学率は男子44%、女子13%にすぎない。今の広島市中心部は男55%、女35%で農村部より高かった。その中身となると、袋町小の前身の小学は児童千人に教師5人と満足な授業ができる体制に程遠かった。

 同年から文部省幹部は全国を視察してがくぜんとする。「親類への手紙も十分に書けないような教育」にとどまるレベルの低さ。農村部では「授業が長すぎて家事手伝いの時間を奪う」との苦情が続出した。

 岡山県久米南町出身の労働運動家片山潜(せん)(1859~1933年)は当時の学校のことを自伝に記した。小学ができて村から一人も行かないのは政府向きが悪いからと頼まれ、10代半ばで約100日通学した。

 学問で身を立てようと明治11(78)年から1年間、植月小(現同県勝央町)で助教をしながら校長に教えを請う。学校があった観音寺に住み込み、月給約2円で下の学級を受け持った。上級生の中には自分よりずっとできる生徒が多くいて内心恥ずかしかったという。

 1、2階が校舎に使われた同寺の客殿前には「植月校跡」と刻まれた石柱が立っている。(山城滋)

広島県の小学就学率
 明治13年に男子52%女子15%。就学督促により同15年に男子63%女子27%となるが出席率は55%と10ポイント下がった。同17年は男子73%女子46%。同30年代半ばに90%台になる。

(2022年3月4日朝刊掲載)

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