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社説・コラム

『今を読む』 西南学院大教授 柿木伸之(かきぎ・のぶゆき) 中央図書館移転問題

文化創る視点で議論を

 広島でその謦咳(けいがい)に接することがかなわなかった一人に、ドイツ文学研究者の好村(こうむら)冨士彦氏がいる。私が2002年に広島市立大学に赴任した時、研究するベンヤミンの思想を早くから紹介してきた氏の話を聴く機会が遠からず訪れると思っていた。

 しかし同じ年に飛び込んできたのは訃報だった。それを前に、好村氏が「広島文学資料保全をすすめる会」の立ち上げに関わり、広島に文学館建設を求める運動の先頭に立っていたことを知った。

 現在は「広島文学資料保全の会」として活動を続けている市民の組織は、1990年に峠三吉の未公刊原稿などを発掘して広島市中区の中央図書館に寄贈している。原民喜の原稿や書簡が図書館に寄託されるのを仲立ちしたこともあった。これらの資料は、峠と原の作品を読み直すための基礎である。ここに立ち返ってこそ、詩人が書き残した言葉の原石としての輝きを新たに見いだすことができる。

 こうした発見を市民が共有するならば、詩人の作品を、あるいはその詩に関連する書物を図書館に求めるに違いない。それを通じて読み継がれてこそ、原の「鎮魂歌」のように死者の嘆きを反響させる言葉や、峠の詩のように原爆の犠牲者の奥底から湧き上がる叫びを声にする言葉が、広島からの文化を創るのに生かされ得る。そのように考え、好村氏たちは文学資料の中央図書館への寄託を進めてきたはずだ。峠と病室を共にしたことのある好村氏は、並々ならぬ使命感で活動に取り組んでいたと思われる。

 しかしながら、保全の会によれば、こうして中央図書館に送り届けられた貴重な資料は、十分に整理されないまま収蔵されているという。これらの資料を、研究者はじめ関心ある人がいつでも閲覧できるようデジタル・アーカイブ化を含めた整理を進め、資料の意義をさまざまな角度から伝えられる場を設けることは、そのための人的組織を整えるところから構想されなければならない。このことは、現在、広島市が移転を検討している中央図書館の将来像を議論する際の出発点に置かれるべきことである。

 図書館とともに移転が取り沙汰されている映像文化ライブラリーが所蔵する資料の意義も、十分に知られているとは言いがたい。とくに日本映画のコレクションは重要だが、その映像は、日本における映画芸術の草創期からの展開のみならず、広島と長崎の被爆を含む歴史的な出来事と人々の関係も、公の歴史やマスメディアが伝えない光景とともに映し出している。

 こうしたアーカイブの発展を、広島の文化の創造にどのように生かせるか、そのために施設がどうあるべきかを検討することが、場所を巡る議論に先立つべきである。

 市は、中央図書館と映像文化ライブラリー、そして、こども図書館を、JR広島駅前の商業施設に「再配置」する方針を示している。そこに至るまでに広島の文化の将来を見据えた施設の在り方について、どれほど議論されたのだろうか。

 むしろ駅周辺の再開発と結びついた、文化とは無縁の「活性化」の一環として方針が打ち出されたとしか思えない。現地での建て替えと駅前商業施設への移転を、費用や利便性などの観点から比較したデータも出されたが、文化施設を活用した文化の理念を語る前に提示するのは、議論の進め方として不適切である。

 好村氏は、原と峠に加え、大田洋子や栗原貞子の作品にも触れ、被爆の記憶を引き受けることで表現の可能性を広げた文学が、世界的な意義を帯びるようになったと論じている。私もヒロシマ平和映画祭の活動に関わった経験から、被爆に向き合った作品が映画史に決定的な足跡を残したことを痛感している。

 このような作品の力を市民の間で生かすことによって、現在続いている戦争などの暴力に抗し得る生存の文化を、被爆をはじめ近代史の出来事が刻印された広島の地からどのように創造するか。中央図書館と映像文化ライブラリーの将来に関する議論は、この問いに向き合うところから出直されるべきである。

 70年鹿児島市生まれ。専門は20世紀ドイツ語圏の哲学と美学。広島市立大教授などを経て21年から現職。著書に「ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評」「パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ ヒロシマを想起する思考」など。

(2022年3月5日朝刊掲載)

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