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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅱ <14> 儒教復活 欧化主義の行き過ぎを危惧

 文明開化は明治10(1877)年の西南戦争で一段落する。士族反乱の心配がなくなり、開化時代の反動として忠孝などの儒教主義が復活し始めた。主な舞台は教育である。

 声を上げたのは20代半ばを過ぎた明治天皇だった。明治11(78)年秋の北陸東海巡幸で学校を訪れ、高尚な空論を述べる農商の子弟や、英語が上手でも邦訳ができない生徒に出会う。欧化主義の行き過ぎをなんとかせねばと感じたようだ。

 天皇は右大臣岩倉具視に日本固有の道徳を養うのが緊要と説く。儒学を天皇に進講する侍補の元田永孚(ながざね)には「学制発布以来の米国教育法のせいではないか」と言った。元田は明治12(79)年9月、天皇意見として「教学大旨」をまとめた。

 最近の教育を「専ら智識才芸のみを尊び、文明開化に走り風俗を乱す者も少なくない。君臣父子の大義がすたれはしないか」と批判。「仁義忠孝を明らかにし、道徳と才芸を備えた教学を広めるべきだ」と説く。別に「小学条目」として、忠孝の大義を早くから教え、農商子弟向けに実業学科を設けるよう求めた。

 学制の背景にある殖産興業や富国強兵の国策も揺るがしかねない聖旨である。内務卿(きょう)の伊藤博文は「教育議」を著して反撃に出た。

 伊藤も風俗の乱れは認める。その原因は開国と封建制廃止という維新変革にあり、教育は速効性はないが現状を改善する治療法であるとし、科学など実用の学の大切さを指摘。古い陋習(ろうしゅう)を擁護して国教を打ち立てるべきでないとも主張した。

 元田も反論する。特に国教については、日本は天祖を敬い儒教を取り入れて祭政教学一致で来ており、今日の国教は他にない、と。

 論争は未決着でも、聖旨の影響は大きかった。文部省は明治14(81)年に修身科を充実させ、尊王愛国を強調する小学校教員心得を定めた。

 広島県は翌15(82)年に小学校教則を作り、修身科を筆頭に掲げる。広島中心部の小学教員に対しては新年・紀元節(神武天皇即位日)・天長節(天皇誕生日)の拝賀の儀の礼服着用、午前9時参賀などを命じた。徳育重視と忠君愛国の波が教育の場に押し寄せていた。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅱおわり

元田永孚
 1818~91年。元熊本藩士で儒学者。明治4年に宮内庁へ出仕し天皇の侍講や侍補。同11、12年に天皇親政運動を起こして内閣と衝突。侍補廃止後も天皇の信任を受け、教育勅語起草にも加わった。

(2022年3月5日朝刊掲載)

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