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連載・特集

知られざるヒバクシャ 劣化ウラン弾の実態 第5部 戦場国の爪痕 イラク <6> 女性医師 同僚も次々乳がん 住民の将来に不安

 バスラ市西部のアル・ハイアニア地区に、婦人科医のナディア・ユシフさん(33)の小さな診療所はあった。「ナディア」の名前を頼りに、繁華街のビルにある同名の女性医師の診療所を訪ねたところ、「そのナディアさんなら知っている」と教えられ、診療終了前に辛うじてたどり着いた。

ランプともし診療

 平屋建ての玄関を入ると、六畳ほどの待合室に二人の女性が診察を待っていた。その奥の診察室で診療中の彼女に来意を告げると、突然の押し掛けにもかかわらず、快く取材に応じてくれた。

 停電のため、ガスランプをともしての診療である。待合室はガスよりも暗い石油ランプで、ほのかに照らされていた。

 イラクではほとんどの医師が朝から午後二時までは公立病院で働き、午後三時からは個人クリニックで、それぞれ診療に当たる。給料が安くて暮らしていけないためだ。一般の国家公務員の給与は三千五百~五千ディナール(約二百~三百円)。役人らも午後二時の勤務時間を終えると、路上で商売をするなどさまざまなアルバイトに精を出す。

 「お待たせしました」。診療を終えたユシフさんは、目鼻立ちのくっきりとしたふくよかな顔に笑みをたたえ、いすを勧めてくれた。三畳ほどの広さに机といすが数脚。聴診器と血圧測定器のほかは、医療器具らしいものはなかった。

 「私は自分の体だけじゃなくて、バスラや戦場になったイラク南部の人たちの健康がこれから先どうなるのかと思うと、本当に不安で仕方ないのよ」。滑らかな英語で彼女は、不安の理由を話し始めた。

病院の中庭に爆弾

 「私の場合は、二人目の子を妊娠している去年の六月に、右の乳房にしこりを感じて生体検査を受けたの。悪性と分かって、七月一日に手術を受けたわ。一週間後に二女を産んで、それから半年間化学治療を続けたのよ」。その間はむろん、ユシフさんが勤める病院も、診療所も休んだ。

 「十二月の初めにバグダッドへ行って、放射線治療を一カ月間受けたの。治療できる病院が一つだから随分待ったけどね。体が回復して仕事を始めたのは、つい最近のことよ」

 がんの宣告を受けた時は、絶望感に襲われた。今では、右腕の動きがやや不自由な以外はほぼ以前の生活に戻り、希望もわいてきた。

 「それにしても、ここ一、二年で私の周りの女性の医師が四人も乳がんにかかるなんておかしいと思わない。みんなほとんど同じ時に医学生時代を過ごした仲間なの…」。今のところ、早期発見、早期治療で四人とも仕事に復帰しているという。

 一九九一年の湾岸戦争の時、ユシフさんは二十四歳。医学生からバスラ中央教育病院の研修医になったばかりだった。病院の中庭に二発のロケット弾が撃ち込まれて四人が犠牲になったり、バスラ市内の自宅の周辺にも爆弾が落ちた。

離れられない故郷

 「むろん、乳がんの患者が多いのは女性の医師だけじゃない。病院でも、ここのクリニックでも驚くほどよ。二十代の若い女性にまで広がっているの。卵巣がんや子宮がんも増えているわ」

 ユシフさんは、自分たちは医者だから乳がんの早期発見ができたという。しかし、一般の女性は乳がんについての知識が乏しく、経済的な理由もあって、病院を訪ねた時は手遅れのことが多い。啓発活動と乳がん検診を推し進めないと、犠牲者がもっと出る、と懸念する。

 「バスラやイラク南部の環境は、今でも劣化ウランや他の爆弾による化学物質などで汚染されていると思うわ。空気や食物を通して知らないうちに汚染物質を体内に取り込んでしまうかと思うと、二人の娘の健康も心配。だけど、好きな故郷を離れることはできないわね…」

 陸軍将校の夫(36)が任務でバスラを離れても「ついていかない」と言うユシフさん。仕事や故郷への愛着の強さが、健康や環境への彼女の不安を一層かき立てていた。

(2000年6月23日朝刊掲載)

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