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連載・特集

イラク アメリーヤ・シェルター 犠牲1186人、空爆のツメ跡 惨状物語る手形や頭髪

炎の海・あふれる熱湯…逃げ場なく

 重さ約五トン、厚さ約八センチの鉄扉を開き、足を踏み入れたアメリーヤ・シェルターの内部は、青空に映えるモダンな建物の外観からは想像し難いものだった。

 薄暗い中をしばらく歩くと、突然、戸外の光が差し込んでくる。建物の屋上部分にぽっかりと空いた直径一・五メートルほどの穴。光は飴(あめ)のように曲がった幾条もの鉄筋のすき間から、大きく崩れた床に降り注いでいた。

 湾岸戦争で、多国籍軍の空爆開始から約一カ月がたった一九九一年二月十四日午前四時三十分ごろ。米戦闘機から相次いで発射された二発のミサイルが、厚さ二メートルの天井の壁を打ち抜き、轟(ごう)音とともに就寝中の避難民を襲った。バグダッド中心部から西へ約十五キロ。新興住宅街のお年寄りや女性、子ども、そして病人千二百人の避難場所は、一瞬のうちに炎に包まれた。

 「助けようにも鉄扉が開かなかった。地下にあった熱湯用タンクが壊れ、一・五メートルの高さにまで達して犠牲になった人もいます」。十四人の生存者の一人、ウム・ガイダさん(44)は、視察に訪れたアメリカ人ら一行に、感情を抑えながら説明した。

 爆撃の二時間前、洗濯のために八歳だった長男を連れ、すぐ隣の自宅にたまたま戻っていて助かったガイダさん。が、十三歳と六歳の娘のほか、妹の家族を含め九人の肉親を失った。

 「犠牲者のそばから離れたくない」と、その後、生き証人としてガイド役を務めるようになった彼女の案内で、建物の奥へと進む。

 三段ベッドがあったコンクリートの天井にくっきりと残るいくつもの手の跡。地下の壁には、髪の毛や皮膚の一部がくっついて離れない。阿鼻(あび)叫喚の中で息絶えた千百八十六人の命…。

 米軍は最初「攻撃したのはイラクの軍事基地」と発表した。一カ月後、「誤爆だった」と認めた。だが、視察中のアメリカ人の多くは「ピンポイント(精密照準)爆撃」を誤爆とは見なしていない。

 黒くすすけた建物の壁一面に掛かる遺影。生きた証(あかし)を示す一人ひとりの遺影が、「通常兵器」の持つ現代戦争の破壊の大きさと、戦争の悲惨を無言で訴えていた。(文と写真・田城明)

(2000年6月20日朝刊掲載)

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