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連載・特集

広島世界平和ミッション イラン訪問 広がる民間交流 「悲劇」から芽生えた友情

毒ガス被害地と被爆地 式典で平和 共に誓う

 昨年四月の広島世界平和ミッション(広島国際文化財団主催)第一陣のイラン訪問がきっかけで、現地の毒ガス被害者や支援団体と交流を進めている広島市の特定非営利活動法人(NPO法人)「モーストの会」(津谷静子理事長)の会員ら平和使節団の一行計十九人が六月下旬から七月初めにかけ同国を訪れた。首都テヘランでの医学交流や国際会議への参加、イラク国境に近い毒ガス被害地サルダシュト市での平和記念式典に参列するなど、被爆地広島との友 好の芽が、大きく育ち始めた。使節団の交流の模様をリポートする。(広田恭祥、写真も)

 イラン北西部に位置する山あいの町サルダシュト。人口約四万人のその中心にあるモスク前広場は、千人を超す住民で埋まっていた。イラン・イラク戦争(一九八〇―八八年)で、イラク軍によって毒ガス爆弾が投下されたのと同じ六月二十八日夕。コーランの読唱で平和記念式典は幕を開けた。

 人垣に囲まれた来賓席で広島からの一行は、イラクの毒ガス被害地ハラブジャからの九人とともに外国からの初の参列者となった。

 青空に数十羽のハトが放たれる。仮設舞台では、ハラブジャの代表のあいさつに続いて、ミッション第一陣以来の再訪となった津谷さん(50)が参列者に語り掛けた。

 「広島は被爆直後から世界の人々に助けられて復興しましたが、サルダシュトではずっと被害が封印されてきました。でもこれからは共に平和を実現し、幸せをつかむ歩みが始まります」

 広場は拍手と歓声に包まれ、クルドの民族音楽が平和への熱い思いをかき立てた。

 参列者の中には、惨劇を目の当たりにした人が数多くいた。ウルミエ市の医師ハッサン・サガットフルーシュさん(47)もその一人。当時、兵役でサルダシュトの軍診療所を一人で任されていた。

●第二のヒロシマ

 一九八七年六月二十八日の午後四時すぎ。晴天の山並みを越えて現れたイラク軍機が、毒ガス爆弾をこの広場付近の住宅や商店の四カ所に投下。住民は、異臭が辺りを覆うまで毒ガスとは気付かなかった。

 広場から歩いて五分ほどの軍診療所に、被害者が押し寄せ始めた。マスタードガスによる皮膚の水泡(すいほう)やただれ…。直感的に防毒マスクを着け、患者の手当てを始めた。汗で曇ったマスクを外していたために気を失い、市外へ搬送された。

 四日後に戻り、それから二カ月間、患者の処置に追われた。記憶をたどるサガットフルーシュさんは、「市街地への無差別攻撃。決して許せない」と語気を強めた。

 被毒者は当時の人口約一万二千人のほぼ三分の一。一カ月以内で百十一人が犠牲となった。

 サルダシュトの人たちは自らの町を「第二のヒロシマ」と呼び、被爆地広島からの訪問団を待ちわびた。長い間、イラン国内でさえ悲劇は封印され、少数民族のクルド人居住区として政策的な「差別」も受けてきた。それだけに、広島市民と直接会い真実を伝えられる彼らの喜びは、熱烈な歓迎となって表れた。

 一行が到着したのは式典当日の正午すぎ。稜線(りょうせん)に近い町の入り口で数百人の出迎えを受けた。横断幕を幾重も掲げ、ボランティアの若い女性たちは花束をかざした。

 最初に向かった毒ガス患者専用の診療所前の道路では、記念の「ヒロシマ通り」の開通式まであった。

 地元では三年前に被害者支援団体ができた。呼吸器や目の後遺症に悩む被害者は約五千人で、人口の八人に一人に達する。が、戦争被害者として認定され医療、生活援助を受けられるのは約千五百人にすぎない。

 一行が到着する前日、専用診療所の女医カディシ・エブラヒムプルさん(28)に会った。「肺などの専門医がいないため、患者は都市部に行かざるをえない。機器も不十分で、薬が慢性的に不足している」と訴えた。

 サルダシュト滞在二日目に一行は、市の施設での行事に出席。一階ロビーでは、自国イラクによる一九八八年のハラブジャ大量殺りく、広島の原爆被害を含む写真展が開かれていた。

●手渡した千羽鶴

 ホールでの式典には、政府高官や地元の国会議員も登壇し、政治的な注目度の高さをうかがわせた。途中、記念品の交換があり、会社経営者の佃育也さん(45)=広島市中区=の長男で広島大付属小三年の宣秀君(8つ)が、全校児童で折った千羽鶴を地元の子ども代表に手渡した。

 町を離れる直前、支援組織代表の自宅で、近郊の村の女性被害者チマン・サイドプルさん(19)に会えた。二歳で浴びた毒ガスの後遺症で学校は小学五年までしか通えず、今も呼吸不全に苦しむ。八月に広島を訪れる予定で、津谷さんらは再会を約束した。

 「ここまで来て、本当によかった。これからは具体的な支援と文化的な交流も進めたい。記念式典には毎年、訪れるつもり」と津谷さん。

 同行したイラン化学兵器被害者支援協会(SCWVS)の国際担当シャリアール・ハテリ医師(34)は「悲劇から新たな友情が芽生えた。活動を本などに記録して伝えながら、交流をさらに深めていきたい」と力を込めた。

 《イラン・イラク戦争での毒ガス使用》イラク軍は戦争初期から南部戦線でマスタードガスなどを使用。イランの人海戦術対策とされる。さらに、中部から北部にかけて拡大。一部は自国のクルド人居住区にも使った。イラン側の推計で攻撃は300回(うち市街地は30回)。死傷者は10万人以上で、現在も5万人近くが後遺症を患っているという。

 この戦争の教訓から1993年、パリで化学兵器禁止条約が成立し、97年に発効。使用、生産、保有、移転がすべて禁じられた。2005年3月現在の締約国は167カ国。北朝鮮、イラクは未署名、イスラエルは批准していない。

初の医療交流 後遺症対策で連携模索

 医学面での交流は今回、初めて実現した。大統領選さなかのテヘラン市内で、毒ガス被害者を主に診ている病院三カ所を訪れ、両国の医師が討議。病理学・疫学の研究や疾病予防対策で連携の糸口をつかめた。

 ただ両国の被害者には、被毒状況の違いがある。日本は「毒ガス工場での微量の長期暴露」で、イランは「戦場での一度の大量暴露」。経過年数も異なり、同じ扱いは難しい。

 眼科治療で有名なラバフィネジャド病院では、ハミッド・ソフラプル院長(59)ら六人と意見を交わした。

 広島大大学院の武島幸男助教授(42)=広島市南区=が、同大医学部などが一九五二年以来、大久野島(竹原市)の元工員らの検診や基礎研究を続けてきた概要を説明。慢性気管支炎など疾病の統計、高い肺がん発生率と原因究明、マスタードガスによる遺伝子の突然変異といった半世紀の蓄積を話した。

 ソフラプルさんは「後遺症がいつまで続き、人体の本質にどのような影響があるのかが最大の関心事だ」と語った。

 イマームホメイニ病院では、化学兵器禁止機関(0PCW)の科学諮問委員でマシュハド大のメヒディ・バラリムッド教授(63)と面会。イラン側から、共同研究や学生交流の提案があった。

 「ジャンバザン」と称される戦争負傷者を支援する財団運営のササン病院。ハミッド・バフマン院長(69)らは、呼吸器系の後遺症の進行と喫煙との関連や、肺の細気管支での発病メカニズムと治療方法について日本側の情報提供を求めた。

 内科医院を開業している津谷隆史医師(50)=同市東区=は「今後心配されるがんのフォローが必要。連絡を取り合い、協力していきたい」と話していた。

呉共済病院 忠海分院元院長 行武正刀さん(71)

破壊兵器の使用回避訴え

 「核兵器と化学兵器はそっくり。使えば、人類は滅亡を免れない。回避する人類の英知に期待したい」。テヘラン市内のイマームホメイニ病院で六月二十五日にあった化学兵器問題に関する国際会議。行武さんが発表をこう締めくくると拍手が広がった。

 旧日本軍が大久野島(竹原市)で毒ガスを造った歴史と、六千人を超す元工員らの健康被害と追跡調査について話した。「大久野島に関する報告はイランでは初めてだろう。毒ガスの恐ろしさ、それを使用することの愚かさの認識は同じだ」と振り返る。

 一九六二年から、毒ガス患者を診てきた。病歴室の棚に並ぶカルテは約四千五百人分。「半数は亡くなった」と言う。

 広島大の死因調査で、五二年から十年間にのどや肺のがんが多発していた。「将来、イランでも起こり得る」。あえて現地で警鐘を鳴らした。

 昨年夏、大久野島を訪れた同国の毒ガス被害者支援協会のメンバーら八人を案内したのが、今回参加したきっかけだった。

 サルダシュト市で、一枚のポスターを譲り受けた。初期の死者百十一人の遺影で、写真のない乳幼児たちは犠牲者を表す赤いチューリップの絵が描かれていた。「いかに痛ましい状況だったか…」と言葉を失った。

 旅を通じてイラン人の親しみやすい人柄にも触れた。そのことも日本で伝えるつもりである。

(2005年7月4日朝刊掲載)

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