×

社説・コラム

寄稿 「ドライブ・マイ・カー」ロケ地広島のパワー 西崎智子

再生の物語 被爆地が深み

「平和の軸線」せりふにも

 作家村上春樹さんの短編小説を映画化し、約3分の2が広島県内で撮影された映画「ドライブ・マイ・カー」が、国内外の賞レースを席巻している。日本時間28日に受賞作の発表を控える第94回米アカデミー賞では、日本映画初の作品賞、脚色賞を含め4部門の候補になる快挙を成し遂げた。受賞ごとに上映館や観客数が増え、ロケ地広島の魅力が波及していく実感がある。

 撮影候補地として濱口竜介監督が初めて広島入りしたのが2020年9月。当初は韓国・釜山で大部分のロケをすると決まっていた。だが新型コロナウイルス禍で海外ロケが行えなくなり、国内でふさわしい都市を探していた。

 濱口監督が広島でほれ込んだ場所の一つが、ごみ焼却施設中工場(広島市中区)。瀬戸内海沿いに立ち、美術館のような趣。私自身、大好きな場所だ。この建物は、丹下健三の事務所で学んだ谷口吉生が設計した。原爆ドームと原爆死没者慰霊碑を結ぶ直線「平和の軸線」上にあり、内部の中央をガラス張りにすることで軸線を遮らずに海へと抜ける構造となっている。

 そんな説明をしながら現地を案内していると、濱口監督が「みさきの大切な場所に」と言うのが聞こえた。みさきとは、主人公・家福の専属ドライバーの役名のこと。映画では、みさきがお気に入りの場所だと言って家福を連れて行き、「平和の軸線」がせりふに盛り込んであったのは、うれしい驚きだった。

 また濱口監督は、復興期の広島を舞台とする日仏合作映画「ヒロシマ・モナムール」(1959年、邦題「二十四時間の情事」)の大ファンだと明かしてくれた。私は2008年、主演の故エマニュエル・リバさんを約50年ぶりにロケ地に案内したことがあった。リバさんは広島国際会議場(中区、撮影時は新広島ホテル)に足を踏み入れた途端、感情が大きく揺さぶられ、その後「広島がずっと気になっていた。街が大きく美しく復興し、幸せに思う」と語った。

 私はロケの誘致活動に携わって20年近くになる。リバさんの言葉は私の原点となっている。映画スタッフをロケ候補地に案内する際は、被爆地・広島の歴史を必ず説明する。濱口監督にもリバさんとのエピソードをはじめ、平和への思いを伝えた。広島国際会議場は「ドライブ・マイ・カー」にも再三登場する。

 平和記念公園内を映す時、原爆死没者慰霊碑からできるだけ距離をとろうと苦心していた濱口監督の姿が印象に残っている。スタッフ用の撮影スケジュール表には「広島の方々にとって、とても大切な場所であるという心持ちを忘れずに」と書かれ、最大限おもんぱかっているように見えた。昨年11月の広島国際映画祭では「妻を亡くした男性の再生の物語。原爆という傷から復興した広島は物語のコンセプトにぴったり」と語った。

 広島は、映画の作り手と鑑賞者それぞれの心に強烈なメッセージを訴えかけてくる。「ドライブ・マイ・カー」は、そんなパワーを証明した宝物のような映画だ。28日の受賞作発表へ、夢は膨らんでいる。

にしざき・ともこ
 広島フィルム・コミッション(FC)スタッフ。1966年高松市生まれ。神戸市外国語大卒。2002年の同FC設立に関わり03年から現職。ロケ誘致やエキストラ手配などを担う。主な支援作品に「父と暮せば」(04年)「夕凪(なぎ)の街 桜の国」(07年)「この世界の片隅に」(16年)。

(2022年3月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ