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[ヒロシマの空白 証しを残す] サッカー元代表 志半ば被爆死 爆心直下 旧天神町北組の清水さん

歴代2ゴール目 遺族「戦争繰り返さないで」

 米軍が広島に原爆を投下した1945年8月6日、現在の平和記念公園(広島市中区)内にあった旧天神町北組で被爆死した元サッカー日本代表選手がいた。強豪だった旧制広島県立広島中(現中区の国泰寺高)出身で、大正期の国際試合で代表歴代2ゴール目を決めた清水直右衛門さん。26日、自宅跡の近くに被爆遺構展示館が開館するのを前に、今や広島でも知る人の少ない名選手の生涯をたどった。(編集委員・水川恭輔)

 「とにかくスポーツがよくでき、しゃきっとした男前で家族みなが頼りにしていたそうです」。めいの玲子さん(79)=東区=は清水さんの写真を自宅に飾り、供養を続けている。玲子さんが2歳の時に被爆死し、実の妹だった玲子さんの母も若くして病死したが、もう一人の妹の伯母からよく思い出話を聞いたという。

 清水さんは1902年、滋賀県に生まれた。呉服商の父が広島に進出して旧天神町46番地に店を構え、家族で移住。現在の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館南側の緑地の辺りだった。

 戦前の広島中の校友会誌「鯉城」は蹴球部に入った清水さんの活躍をいくつも伝える。「火の出る様なシユートをなせし」―。部員だった10年代は広島で本格的にサッカーが普及していった時期。フォワードでプレーし、広島や関西での学校対抗試合を制した。20年に卒業後、サッカーが盛んだった神戸市の神戸高商(現神戸大)に進んだ。

 在学中の23年、大阪で開かれた3チーム対抗の極東選手権大会に日本代表として出場。大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)が21年に結成されてから初の国際試合だった。1対2で敗れたフィリピン戦に続く中華民国戦、清水さんはヘディングでゴールを決めた。1対5で敗れたが、当時の大阪朝日新聞はこの得点を「見事」「スタンド沸き返る」と報じた。

 卒業後は天神町で呉服問屋を継ぐ一方、広島中卒業生たちでつくる鯉城蹴球団の中心選手に。24年から全日本選手権(現天皇杯)を連覇した。その後、同協会の中国支部長も務めた。

 しかし45年8月6日、競技の振興にも携わった人生は一瞬で断ち切られた。当時42歳の清水さんは妻一子さんと自宅兼店舗にいた。爆心地から約250メートル。強烈な爆風、熱線を受け、天神町一帯は壊滅した。疎開していた父が台所の跡で2人の遺体を見つけた。

 それから77年。日本サッカー協会によると、清水さんの中華民国戦のゴールは現在1314に上る日本代表の通算得点の2点目として歴史に刻まれている。広島県サッカー協会が2010年に出した「栄光の足跡 広島サッカー85年史」も草創期の名選手として清水さんを紹介した。

 ただ、同書に「被爆死」の記述はない。子どもがおらず、妻も犠牲となっただけに、同窓会にも親族の所在が分からず、生涯を十分に調べるすべがなかったという。広島のサッカー史に詳しく、執筆を担当した渡辺勇一広島経済大教授は「被爆死していたとは知らなかった。8月6日、広島のスポーツの歴史がさまざまな面で途絶えたことにあらためて気づかされる」と話す。

 平和記念公園にあった街の被害を伝える被爆遺構展示館は清水さん宅跡の約30メートル南に立つ。近くには旧天神町北組の犠牲者の慰霊碑があり、清水さんを含む274人が刻まれている。

 玲子さんは、開館を機に清水さんの存在を知る人が一人でも増えればと願う。「戦争、原爆で伯父たち市民のかけがえのない人生が奪われた。それを繰り返すような外国の動きをニュースで見て、なおさら広島で起きたことの恐ろしさを知ってほしいと思います」

被爆遺構展示館
 広島市が、被爆前に多くの商店や民家が立ち並んでいた旧中島地区(現平和記念公園一帯)の被害実態を伝えるために整備。同地区の旧天神町北組があったエリアで発掘された、炎上した建物の跡や通りのアスファルトを展示する。旧中島地区には被爆前、約4400人が暮らしていたとされる。

(2022年3月19日朝刊掲載)

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