×

ニュース

[ヒロシマの空白 街並み再現] 爆心直下 ひしめく店や家 天神町北組にあった米田京染店の写真

消滅した街 遺族「地獄やった」

 原爆資料館東館などがある平和記念公園(広島市中区)の東南エリアは、かつて多くの店や民家がひしめいた天神町北組だった。緑豊かな旧町域の地下には今も街の遺構が残り、市は近年発掘した建物や通りの跡を、26日開館の被爆遺構展示館で公開する。この地にかつて、どんな暮らしがあったのだろうか。町内にあった米田京染店の家族のアルバムや証言を基に、爆心直下で消し去られた街を見つめる。(編集委員・水川恭輔)

 「11歳までしかいなかったのに、やっぱり古里は広島という感じがするんですよ」。瀬川穂江(さきえ)さん(88)は松山市の自宅で、生まれ育った天神町北組の米田京染店の写真を懐かしそうに見つめた。

 「そうやなあ」。近くに住んでいる2歳違いの弟の米田清荘(せいそう)さん(86)も相づちを打った。叔父の故博さんの遺品のアルバムには、幼少期の2人が自宅で並ぶカットも残る。預かった着物などを洗って干す2階の屋外に立ち、笑顔を見せる。

 もともと松山藩の武士だった米田家は、江戸期の終わりとともに親戚のいた広島に移住。別の親戚が京都で携わっていた着物の染色の店を開いた。2人の父の吉清(よしきよ)さんは京都で修業した後に店を継ぎ、宮島の旅館などを顧客にしていた。

 穂江さんは、近所の街並みと思い出が結びついている。「斜め向かいは繁盛していた履物店の沖田さん。節分の豆まきのときに私たち子どもを呼んでくれるのが楽しみでした」。自宅の両隣は病院、南に歩くと大きな天城旅館もあった。

 優しかった父と参加した地域の行事も忘れられないという。町民運動会の親子競争は、一緒に走って1着に。近くの天満神社に飾られる習字の宿題でも手ほどきを受けた。「字のうまい父に『いかんいかん』と何枚も書かされましたが、今では良い思い出です」

 ただ、1941年の日米開戦後、戦火が激化する中で店は休業。父は市内の造船所に勤めるようになった。45年春、国民学校6年になる穂江さんと4年になる清荘さんは母たちとともに可部町(現安佐北区)の親戚宅に疎開した。

 8月6日、家族は1発の原爆で引き裂かれ、天神町北組は跡形もなくなった。

 母が2日後に焼け跡に入ると、祖母道代さん=当時(61)=の頭が台所跡でくすぶっていたという。父は何日も行方が分からなかったが、後に店の跡を掘ると、愛用のキセルと、遺骨が見つかった。39歳だった父と叔父の秀三さん=同(36)=の遺骨とみられた。祖母の姉もまた犠牲となった。

 助かった母子は45年末、松山市内の母の実家に移った。母は雑貨店を営み、子どもを育て上げた。穂江さん、清荘さんはそれぞれ結婚して家庭を築いた。

 ただ、穂江さんは父への恋しさを抱き続けた。「長い間、死んだとは思わなかったです。どこかにいるんじゃないかと」。あの日から40年以上後のこと、電車でそっくりの人を見て胸が高鳴った。ついて行こうか―。その人が電車を降りるまでじっと見ていた。

 清荘さんも郷愁が消えない。思い出すのは、よく遊んでくれた近所の化粧品店のお兄ちゃん。「元安川の砂浜で相撲を教えてくれました。優しい人でねえ」。疎開前に会ったのが最後でその後は分からない。

 26日に開館する被爆遺構展示館では、米田京染店も面していた天神町筋の路面なども展示される。2人は「ぜひ行ってみたい」と話す。そう思うのは、懐かしさからばかりではない。

 清荘さんは、父を捜して母と焼け跡を歩いた時に見た数多くの遺体が脳裏に焼き付いている。「地獄やった。あんなもん、絶対に使っちゃいかん」。清荘さんの強い口調に、姉もうなずいた。核兵器が1発でも使われれば、街が、家族がどうなるか。

 ウクライナを侵攻したロシアの大統領が核使用すら辞さない構えを見せ、2人の不安は増す。遺構の展示が、決して繰り返してはならない被害の実態を伝えることを切実に願っている。

(2022年3月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ