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社説・コラム

『潮流』 ウクライナの記憶

呉支社編集部長 道面雅量

 ウクライナを訪れたことがある。文化部にいた2011年秋、広島で開催された「ウクライナの至宝~スキタイ黄金美術の煌(きらめ)き」展のための事前取材。東日本大震災から間もない時期で、取材の先々で「大変な時によく来てくれた」と、東北から来たわけでもないのに至極丁重に迎えられた。今、現地の人々が直面する「大変な時」のすさまじさに、胸がふさがる。

 もう10年以上前のことだが、当時も、ウクライナ人のモスクワ(旧ソ連やロシア)に対する不信や反感を知る場面があった。宝石箱を思わせる壮麗な教会建築が立ち並ぶキエフの街頭で、黒い巨大な看板を見た。

 スターリン主導のソ連時代にウクライナで起きた大飢饉(ききん)(1932~33年)を告発する内容。不作にあえぐ農民に過大な穀物供出が課され、300万人以上が餓死したとされる。ソ連解体による独立まで、言及はタブーだったという。

 広島展に並んだのは、古代ウクライナに躍動した騎馬民族スキタイが残した黄金の装飾品の数々。所蔵する宝物館を訪ねた際、館長がこんな逸話を語った。「ウクライナに今これがあるのは、出土した時にロシア側から『こっちの美術館に送れ』と催促されたのを突っぱねた、実力と人望のある学者がいたから」

 キエフから南へ、スキタイの巨大古墳も訪ねた。草に覆われた墳丘の周りに、なぜか旧ソ連兵の墓碑が多数、敷き詰められている。第2次世界大戦時、一帯が独ソ戦の激戦地となったことに由来するという。現地の考古学者は「撤去の手続きはとても困難で、本格的な発掘調査の妨げになっている」と嘆いた。

 圧政や戦争は、数世代を経ても癒えないほどの深い傷や影を人と社会に残す。決して繰り返してはならないことを、ロシアと国際社会は繰り返してしまった。

(2022年3月22日朝刊掲載)

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