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[ヒロシマの空白 街並み再現] 本通りの薬局「井筒屋」看板 市郷土資料館で展示

老舗の構え にじむ暮らし

 広島市中区の本通りで戦争末期まで営まれていた練り薬店「井筒屋」の看板が現存しており、関係者から市郷土資料館(南区)に寄贈された。米軍の原爆投下で一帯が壊滅する直前に店を閉め、転出していたため焼失を免れたという。広島随一の繁華街の、失われた営みを伝える実物資料だ。(湯浅梨奈)

 「登記商号 井筒屋」。茶色の木製看板に彫られた文字に、金泥(こんでい)と墨が塗られている。縦184センチ、横49センチ。ずしりと重い。横浜市立大教授の荒谷康昭さん(63)=横浜市=が広島市西区の実家を整理中に見つけ、今年1月に寄贈した。

 店の所在地の確認作業をした同館の前野やよい主任学芸員によると、被爆前の市街地の写真を多数掲載する中国新聞「ヒロシマの空白」ウェブサイト上に「井筒屋ネリヤク店」の文字がかすかに写る一枚を見つけた。隣は「奥本金物店」。そこで生まれ育った奥本博さん(91)=中区=に問い合わせ、最終的な特定に至った。

 「どんな店だったのか、覚えていますよ」。3月上旬、奥本さんが郷土資料館に足を運び、懐かしそうに看板に見入った。「店の間口は狭く、左側3分の2ぐらいが小上がりです。のんびりとした雰囲気で、店主夫婦が客に薬を出していました」。漢方薬の粉のようなものを調合している様子も記憶しているという。

 昭和初期の広島商工会議所の名簿に、井筒屋は「寛永年間」の創業とある。家主は奥本家。「うちが井筒屋宛ての電話を取り次いでいました。2軒を隔てる壁に穴を開け、鈴を付けたひもを通してね。電話が来ると、鳴らして知らせるのです」。店主の長男で荒谷さんの祖父に当たる故末田泰造さんは、旧制修道中に通う奥本さんの担任で、英語教師だった。

 1945年8月6日朝、広島に原爆が投下された。奥本さんは、学徒動員先の広島陸軍兵器支廠(ししょう)(現南区)で被爆。爆心地からわずか430メートルの自宅は跡形もなく焼け落ち、両親と妹ら家族6人を失った。井筒屋はその直前に己斐(現西区)へ引っ越していたという。だが「修道学園史」によると、末田さんは福屋前の電車内で被爆し、28日に息絶えた。

 荒谷さんは「本通りのどこで薬局を開いていたのかも、被爆死した祖父が英語教師だったことも、母から生前に聞いたことはありませんでした」と振り返る。「店のたたずまい、店内の雰囲気―。今になって分かることがこれだけあるとは」と語る。

 看板は同館企画展で27日まで展示している。22、23日は休館。

(2022年3月22日朝刊掲載)

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