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社説・コラム

『潮流』 本と青年

■編集委員室長 木ノ元陽子

 広島市中区の原爆ドーム前に座り、一人で黙々と本を読む青年を見掛けた。傍らの箱にはウクライナとロシアに関する本が20冊ほど入っている。辺りには小さな椅子が並べられ、控えめなポスターが立て掛けてあった。「もっと知ろう 本を読もう」。青空読書会を、彼は開いていたのだった。

 市内に住む23歳の大学生。ロシアのウクライナ侵攻を暗たんたる思いで見つめる。会員制交流サイト(SNS)の情報から目が離せなくなる。だが全てうのみにしていいのかと、ふと怖くなったという。「見極めるためには、基本的な知識が必要だと思いました」。だから呼び掛けることにした。「SNSを少しだけ閉じて、本を読もう」と。

 バイトで得た3万円で本を買った。チェルノブイリ原発事故の証言集、ロシア経済やウクライナの歴史の解説本…。雨天中止だが、3月は毎週土曜日に開く。数人が立ち止まって手に取ってくれる。缶コーヒーを差し入れしてくれた人も。

 彼の行動は、大切なことを教えてくれる。繰り広げられているのはSNS情報戦だ。フェイクニュースが戦略として使われ、人工知能(AI)を用いて作られたとみられる偽動画も見つかった。目の前の情報に飛びつき拡散させると、軍事的な緊張をあおりかねない。

 犠牲者が増え続ける現実に、感情が揺さぶられる。冷静でいられなくなる。でも衝動にとらわれてはならない。本を読むとは、情報の渦にのまれずに自分の頭で考えるための訓練とも言えるだろう。一人一人の冷静な思考こそが、国際秩序をつくり直す手だてになると信じたい。

 「目立つのは苦手で…」と青年は言う。市に公園の使用許可を申請するのも緊張する。勇気を振り絞って始めた一人きりの小さな運動。拡声器は使わない、チラシも配らない。彼は静かに、祈るように本を読む。

(2022年3月24日朝刊掲載)

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