×

連載・特集

[プロ化50年 広響ものがたり] 「第1部 焦土からの出発」への反響 草創期 音楽に見た希望

 1963年、被爆地で誕生した広島交響楽団の草創期を探った連載「プロ化50年 広響ものがたり」第1部に、多数の反響があった。アマチュア楽団だった当時の広響を知る人々から寄せられた、新たな「ものがたり」の数々を紹介する。(西村文)

父の演奏姿 初めて目に

 「父が広響の初期メンバーだったとは」。広島市安佐南区の薬師院住職、上野明(うえのみょう)真戒さん(60)は驚く。連載では「学生や僧侶85人寄り合う」の見出しで、多彩な面々が集ったアマチュア時代の広響を描いた。その紙面に添えたモノクロ写真に、父で僧侶の常太郎さん(1981年に48歳で死去)が、ファゴットを構えて写っていた。

 20年余り前に移転するまで、西区南観音町にあった薬師院。原爆で全壊したが、常太郎さんは疎開先で生き延びた。戦後、再建された同院には音楽愛好家が集い、軽快なジャズの生演奏が流れていたという。「父はいつも笑顔でサックスを吹いていた。庫裏にさまざまな楽器を保管し、音楽教室も開いていた」と真戒さんは記憶する。

 今回、オーケストラの一員として演奏する父の姿を初めて目にした。「音楽に真剣だったことが伝わってくる。楽団にどんな夢を抱いていたのか、聞いてみたかった」

元団員 指揮者への敬愛

 「井上先生は指揮棒を置くと、優しい人じゃった」。トランペット奏者の元団員、林恒夫さん(93)=安佐南区=は、初代常任指揮者の井上一清さん(1933~2019年)との写真をずっと大切にしてきた。楽団結成直後の63年11月、鳥取への演奏旅行で撮影した。

 林さんは戦時中、14歳で三菱重工に入社。寮生活で軍隊ラッパを吹く係になった。原爆で中広本町(現西区)の実家は焼失し、祖父が被爆死。母と姉の3人暮らしを支えるため日中は会社員として働き、夜はダンスホールでバンドボーイをしながらトランペットの腕前を磨いた。

 72年の広響プロ化を機に退団したが、近年まで公民館のコーラス指導など音楽に関わり続けてきた。「広響の思い出は宝だね」

青春時代 通ったムシカ

 「青春時代に戻った気分で連載を読んだ」と、手紙に記したのは栁田照子さん(88)=西区。連載で取り上げた「純音楽茶房ムシカ」に足しげく通ったという。

 原爆投下時は学童疎開をしていたが、新川場町(現中区)の実家で被爆した母は後遺症に苦しんだ。終戦を機に「軍国教育の少国民から自由で楽しい学校生活に一変した」。観音高時代、恩師の影響でクラシックに親しむように。卒業後は三菱重工に入社し、職場の合唱団で歌った。「勤務明けの楽しみはムシカ。1杯50円のコーヒーで粘った」

 終戦後、広島駅近くの闇市に開店したムシカは、大みそかにベートーベンの交響曲第9番のレコードを流して市民を勇気づけた。その「第九」が初めて広島で全曲演奏されたのは56年12月。後に広響を結成する音楽家たちが奏で、参加した市民約240人が「歓喜の歌」を響かせた。「ムシカ抜きに広島の音楽史は語れない」。市民の一人としてステージで歌った栁田さんは語る。

私の思い出あれこれ

 松田治三さん(86)=広島市東区
 戦後は音楽に飢えた人が多かった。私が生まれ育った三原でも月1回のレコードコンサートは満員で、立錐の余地もないほどだった。1台しかなかった大型蓄音機を世話役が大八車に載せて運び、四方八方から探し出したクラシックのレコードをかけていた。

 片岡直次さん(82)=広島市南区
 創設期からの広響ファン。昔の楽団員が登場した連載を懐かしく読んだ。1985年ごろ、ひろしまフラワーフェスティバルで広響の指揮体験をした=写真。ゲスト指揮者の故山本直純さんに褒められたことは、人生最高の思い出だ。

 平田周那さん(74)=広島県北広島町
 30年以上前から夫と2人で県北から公演に通った。広響はカープと同様に地元の財産だ。コロナが収束したらまた足を運びたい。

 山田ヒメ代さん(76)=山口県周防大島町
 戦後、友人宅の蓄音機でバイオリン曲の「ツィゴイネルワイゼン」を聴いてクラシック音楽に憧れた。遠方でなかなか広島まで行けないのが残念。山口公演があるとうれしい。

 杢内千春さん(42)=広島市佐伯区
 昨年、広響音楽総監督の下野竜也さんが定期演奏会に親子を招待する企画に当選し、小学生の長男俊太郎と鑑賞した。演奏後、割れんばかりの拍手に感動した。下野さんが長男と撮影に応じてくださり、わくわくした=写真。連載を読み、広響を応援する気持ちが深まった。

ご意見、投稿はメールbunka@chugoku-np.co.jp ファクス082(291)5828

(2022年3月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ