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社説・コラム

『今を読む』 アムネスティ・インターナショナル日本元理事 野間伸次(のましんじ) 広島から見たロシア

人権侵害を赦さない世界に

 ロシアによるウクライナ侵攻で、ある人を思い出した。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルのひろしまグループが1989年、初めて担当した「良心の囚人」で、ウクライナ出身のウラジミール・ドビンダという名の青年だった。

 良心の囚人とは、暴力を使ったり唱えたりしてもいないのに思想、信条、宗教、民族などの理由で捕らわれた人だ。ドビンダ氏は、良心的兵役拒否により有罪とされ、矯正労働収容所に送られていた。

 私たちは旧ソ連当局に釈放を求める手紙を送る一方、本人や関係者にも手紙を書いた。90年には、国際事務局からドビンダ氏が条件付きで釈放された旨の情報が入った。

 間もなく本人から感謝の手紙が届いた。当時、アムネスティでは旧ソ連に手紙を送ってもなしのつぶてが常識だっただけに、私たちはペレストロイカ(改革)による変化を実感した。検察当局からも返事が届き、91年に彼は刑期満了となった。ウクライナが旧ソ連の解体で独立した年だ。ドネツクの実家に戻った彼から、釈放の喜びを表す手紙が届いたのは、それからすぐのこと。日本で働きたい旨の手紙も届いたが、力になれなかったのは残念だった。

 ひろしまグループが再びロシアの人権問題と深く関わるようになったのは、2002年に始まった世界規模のロシア・キャンペーンがきっかけだった。日本では翌年「チェチェン・スピーキング・ツアー」があり、広島でもチェチェン人ジャーナリストの講演と映画の上映会を開催した。

 チェチェン紛争でのロシア軍の容赦ない殺りくは衝撃的だった。プーチン大統領の残忍なやり口は国際的な非難を浴びたが、9・11以降の「テロとの戦い」の中で、次第に注目されなくなった。

 06年11月にはチェチェン人医師、ハッサン・バイエフ氏の講演会を広島で催した。チェチェン紛争において敵味方の区別なく医療を施した人だが、そのことで亡命を余儀なくされていた。

 講演後の質疑の際、アンナ・ポリトコフスカヤ氏についての質問が出た。チェチェン紛争でのロシア軍の残虐さを告発し、プーチン政権を鋭く批判し続けたジャーナリストだ。ノーベル平和賞を昨年受賞したドミトリー・ムラトフ氏が編集長を務めるノーバヤ・ガゼータ紙の記者だった。

 バイエフ氏は「アンナに会った時、危険だと注意していたのだけれど、『じゃあ、どうすればいいと言うの?』と返された」と沈痛な面持ちで答えた。講演会の前月、彼女は何者かによって暗殺されていたのだった。

 彼女の他にも、プーチン氏に批判的なジャーナリストや活動家たちが相次ぎ暗殺された。しかし国際社会はロシアに強い態度を取れなかった。

 11年の民衆蜂起から始まったシリア内戦で、ロシア軍はアサド政権を援護して、チェチェン紛争当時と同じ無差別攻撃を行った。アムネスティやロシアの人権団体「メモリアル」なども、ロシア軍の国際人道法違反を告発する報告書を発表している。

 しかし当時はアサド政権やロシアの偽情報を信じる人が日本を含め少なくなかった。国際社会もプーチン政権に厳しい姿勢で臨めなかった。横暴を赦(ゆる)してしまった揚げ句、14年のクリミア併合を経て、今回のウクライナ侵攻である。「もっと何かできたのでは」と思うことばかりだ。

 アムネスティには「クライシス・エビデンス・ラボ」という部局があり、ウクライナでの戦争犯罪を調査中だ。このラボは、マレーシア航空機撃墜事件の容疑者を特定した「ベリングキャット」というオープン・ソース(インターネット上の公開情報)調査のパイオニアに触発されて、できた。今はロシア軍の戦争犯罪を次々暴いている最中だ。

 戦争犯罪をきちんと裁いて罰し、被害者への補償ができる世界にならなければ、悲劇が繰り返される。戦争が起きると騒いで、終われば忘れられていくことの繰り返しは、もうたくさんだ。日頃から声を上げ続けることが戦争を防ぐためにも大切だと改めて思う。戦争前には必ずと言っていいほど、当事国には深刻な人権侵害があるのだから。

 62年広島県府中町生まれ。大阪大大学院文学研究科前期課程修了。88年アムネスティ・インターナショナル入会。03~07年日本支部理事。現在は、ひろしまグループ運営担当、翻訳協力者。会社役員。同町在住。

(2022年3月26日朝刊掲載)

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