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連載・特集

3度の空襲 無数の傷痕 東京の旧日立航空機変電所 非人道性 静かに訴え

 原爆ドームが世界遺産登録に先立って国史跡に指定された1995年、東京都東大和市の旧日立航空機変電所が同市の文化財に指定された。外壁に米軍機の空襲の痕跡が無数に残る「戦災変電所」。2度目の補修を終えて昨年10月から内部の公開を再開している。80年代には取り壊しの危機もあったが、市民による保存運動が広がり、戦災遺跡を文化財に位置付ける先進例の一つとなった。太平洋戦争開戦から80年が過ぎた節目に現地を訪ねた。(特別論説委員・佐田尾信作)

 多摩湖(村山貯水池)や狭山丘陵で知られる東大和市は人口8万人の郊外型都市。変電所は西武拝島線玉川上水駅に程近い。一帯は都立公園として整備され、冬の日差しの中を散策する人やベビーカーを押す人の姿がある。変電所は爆弾の破片や機銃掃射による無数の傷を残したまま、ひっそりたたずんでいた。

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 同市を含む三多摩地域には戦前、飛行機部品の工場が数多く立地し「空都」と呼ばれた。畑地ばかりの大和村(当時)に東京瓦斯(ガス)電気工業(瓦斯電)が航空機エンジンの工場建設に着手したのは、日中戦争勃発の翌年の1938年。程なく日立航空機立川工場と改称し、ピーク時には約1万3千人が働く一大軍需工場が誕生した。瓦斯電は当時のドイツの都市設計に倣って住宅や福利厚生施設なども計画的に配置し、これが現市街地の原型となったのだ。

 やがて太平洋戦争では空都は米軍の本土空襲の標的と化す。立川工場も45年に爆撃と機銃掃射を3回受け、合わせて100人以上の犠牲者が出た。3回目の4月にはB29101機が500ポンド爆弾を1800発余り投下し、ついに工場は壊滅している。

 沖縄進攻を助けるため九州の飛行場を爆撃する計画を気象条件のために変更したことが、米軍資料から近年判明した。一工場を狙うにはあまりにすさまじい攻撃だったが、変電所は形をとどめ、93年まで稼働していたという。

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 東大和・戦災変電所を保存する会(小須田廣利会長)が2017年に出した「戦災変電所の奇跡」という記録集がある。奇跡という言葉を多用し、変電所が今に受け継がれたのはなぜか、読み解いている点が強く印象に残る。

 一つの奇跡は鉄筋の建物が爆風に耐え、西側の高い煙突3本も急降下する艦載機の妨げになったと推定されることだという。もう一つは工場跡地に戦後進出した企業があえて補修せずに使っていた奇跡である。さらに特筆すべきは工場関係者以外知らなかった変電所を戦災遺跡として文化財指定できないか、市教委が諮問を試みたことだろう。1979年のことである。

 折しも一帯を都立公園として整備する計画に伴い、変電所取り壊しの案が浮上する。保存を求める市民運動に当時の前市長や旧立川工場関係者も賛同し、市が管理して市民に公開することを条件に都も折れ、変電所は残った。95年には市文化財に指定されて補修を行い、20年を経た2016年には保存のための基金を設け、ふるさと納税による寄付も募った。返礼品なしであり、この制度本来の趣旨に沿うものではなかったか。

 変電所は2度目の補修を終え、昨年10月から内部の公開を再開した。配電盤なども弾痕をとどめ、多い日の入場者は500人に達している。市立郷土博物館の梶原喜世子さんは「今後は戦災資料館ができればいいね、という話もあります」と言う。実現すれば、戦前の日本があの戦争に突き進んだ時代をあらためて後世に知らしめ、米による戦略爆撃の非人道性も伝えていくことができるだろう。

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 内部公開は毎週水、日曜。無料。東大和市立郷土博物館☎042(567)4800。

戦争遺跡と文化財指定
 戦争遺跡保存全国ネットワークの昨年10月のまとめによると、文化財に指定・登録された戦争遺跡は全国で319件ある。うち国指定39件、県指定18件、市区町村指定141件。1990年に沖縄県南風原(はえばる)町が沖縄陸軍病院南風原壕(ごう)を町文化財に指定したのが国内で初めて。95年には大分県宇佐市・城井(じょうい)1号掩体(えんたい)壕の市文化財指定、原爆ドームの国史跡指定、東大和市・旧日立航空機変電所の市文化財指定と続いた。

(2022年3月28日朝刊掲載)

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