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変革期の医学 今に 江戸後期から明治期の島家文献 広島で発見

「内象銅版図」 解剖図を精細に描く

「外科必読」 阮甫が編集 写本6巻

 江戸時代後期から代々医師を務めている島家の医学文献164点が、かつて医院のあった広島市安芸区の蔵で見つかった。文献の多くは、漢方を中心とした東洋医学から、西洋医学へと移り変わる時期に発刊された。日本の医学の変革期を物語る貴重な史料といえる。(桑島美帆)

 心臓や胃、脳などの解剖図を精細に描いた「内象銅版(ないしょうどうばん)図」。津山藩の蘭方医、宇田川玄真(1769~1834年)が、西洋の医学書数点を翻訳して編集し、1805年に刊行した「医範提綱(いはんていこう)」の付録として、3年後に出版された。国内初の銅版印刷による解剖図だ。

 津山洋学資料館(津山市)の近都兼司学芸員(30)によると、「医範提綱」は医学用語を体系化し、生理学や病理学をまとめた江戸時代のベストセラーで、「医学史上の重要な文献」と説明する。玄真は、現代の医学用語である「腺」や「膵(すい)」の文字を考案した人物としても知られる。

 玄真の門下生の箕作阮甫(みつくりげんぽ)(1799~1863年)が編集した「外科必読」の写本6巻も見つかった。「創傷総論」「血腫」「面創」など、分野ごとに外科治療の基本が書かれている。同館によると、ドイツの外科書をオランダ語に訳した原作を阮甫が翻訳。東京大医学部が保有する阮甫の自筆以外は、写本しか現存していないという。

 島家は、江戸後期に島通貫が中野村(現安芸区)の自宅で医院を開業。1855年ごろ、19歳だった息子の良澤(りょうたく)(生年不詳~1894年)が引き継いだ。蔵書の大半は良澤が集めたものとみられ、医院跡地に残っていた蔵で保管されていた。

 近くの矢口神社境内には、精神科の草分けとなった広島藩医、呉秀三(1865~1932年)が良澤たち島家の功績をたたえた「島氏三世碑」が立つ。

 広島大文書館(東広島市)の石田雅春准教授(45)の解釈では、石碑には「死体を解剖し種痘を行ったため、村人は非道の行いをしていると疑い、ひそかに殺害しようとした」「梅毒の治療に特別な秘法があり、方々から治療希望者が集まり、島家の家業はますます大きくなった」などと刻まれている。村民の警戒心を解きながら、西洋医学を導入していった様子がうかがえる。

 医学文献164点は、島家の5代目に当たる島一秀さん(87)が同大医学資料館(広島市南区)に寄贈することが決まっている。一秀さんは、爆心地として知られる島病院を引き継ぐ島内科医院(中区)の名誉院長も務める。164点の中には1801年に地元で出版された一般家庭向けの「郷里急救方」や、7種類の新薬を解説した「七新薬」(1862年)、ドイツの解剖書などを参考に編集された「解剖攬要(らんよう)」(1881年)なども含まれる。

 津山洋学資料館の小島徹館長(51)は「明治から百数十年以上たった今、これだけの蔵書が残っていたこと自体、非常に貴重だ」と話している。

史料の保存・継承が急務

 地域に眠る歴史資料の保存、継承は、喫緊の課題だ。今回見つかった江戸後期-明治期の貴重な医学文献も、蔵ごと処分される直前だった。

 文献を所蔵する島一秀さんの妻直子さん(78)が、周辺の再開発が決まった数年前、蔵内の史料について公的機関に相談したが、対応してもらえなかったという。蔵の取り壊しを前にした昨年3月、広島大文書館に調査を依頼。石田准教授や学生、ボランティア組織「広島歴史資料ネットワーク」のメンバーが協力し、1年かけて資料の整理、分析に当たった。

 蔵が山陽線沿いにあったため、史料の多くは蒸気機関車のすすやほこりで汚れていた。昨年12月、ネットワークのメンバー約10人が2日がかりでクリーニングも行った。蔵からは爆心地島病院に関する貴重な設計図なども見つかっている。

 石田准教授は「蔵は私有財産のため人知れず古文書が失われるケースがある」と指摘。「行政、郷土史家、研究者が地道な資料展示などを積み重ね、歴史資料の価値を共有することが大切」と強調する。

(2022年3月30日朝刊掲載)

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