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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 児玉三智子さん―腕の中でいとこみとる

児玉三智子(こだまみちこ)さん(84)=千葉県市川市

次女の病に苦悩 「被爆 昔話ではない」

 児玉三智子さん(84)は7歳(さい)で被爆し、いとこを失いました。「これは昔話ではありません。あなたたちが被害(ひがい)者になるかもしれない」。全国的な被爆者の組織である日本被団協の事務局次長を務めながら、77年間の被爆者の苦しみを若(わか)い人たちに伝えています。広島と千葉をオンラインで結び、体験を聞きました。

 1945年当時は本川国民学校(現広島市中区、本川小)の2年生。学校の近くにあった自宅(じたく)は、空襲(くうしゅう)に備えて防火帯の空き地を広げる「建物疎開(そかい)」の対象になり、7月ごろ高須(たかす)(現西区(にしく))へ移りました。

 8月6日の朝、転校先の古田国民学校(現古田小)の教室で窓際(まどぎわ)の席にいると突然閃光(とつぜんせんこう)が襲(おそ)いかかり、とっさに机(つくえ)の下に潜(もぐ)りました。左半身の肩(かた)から背中(せなか)にかけて、ガラス片(へん)を浴びました。爆心地から4キロ。先生が包帯代わりにカーテンを引(ひ)き裂(さ)いて、手当てをしてくれました。

 父に背負(せお)われて学校から帰る途中(とちゅう)、市街地方面から逃(に)げてきた人とすれ違(ちが)いました。真っ黒な赤ちゃんを抱(だ)いてはうように進む女性。「水をください」と父の足にしがみつく人。「顔半分と体を焼かれた少女は、助けて、と目で訴(うった)えてくるのです」。振(ふ)り返(かえ)るとすでに倒(たお)れていました。

 爆心地から約3・5キロの自宅は、屋根が爆風(ばくふう)で壊(こわ)れてしまいました。壁やたんすに黒い筋が付いていました。放射性降下物(ほうしゃせいこうかぶつ)を含(ふく)む「黒い雨」です。それでも、焼け出された親戚(しんせき)が児玉さん宅に身を寄せてきました。

 建物疎開作業で被爆したいとこのお姉ちゃん=当時(14)=のことは忘(わす)れられません。玄関(げんかん)で物音がして行ってみると、体中が焼けてほとんど裸(はだか)の人が立っています。「みっちゃん」と掛(か)けられた声で、いとこだと初めて気付きました。

 大好きないとこを必死に看病(かんびょう)したといいます。体からしみ出すうみを拭き、傷口(きずぐち)のうじ虫を取りました。3日目の朝、「水…」と言われました。体を抱(だ)きかかえ、水を含(ふく)ませた手ぬぐいを口元で絞ると、のみ込む力はなく、水滴(すいてき)が口の周りを伝いました。そのまま腕(うで)の中で息絶えました。

 いとこのお兄ちゃん=当時(10)=の傷は軽く見えましたが、いつも下痢(げり)をし、時折鼻と口から血を流していました。9月初旬(しょじゅん)のことです。突然、血の塊(かたまり)を吐(は)いて倒れ込み、その場で亡(な)くなりました。「恐ろしくなり、母からしばらく離れられませんでした」。児玉さんも似た症状(しょうじょう)に悩(なや)んでいたのです。

 爆心地からすぐの本川地区一帯は、壊滅(かいめつ)しました。「もし前月に引(ひ)っ越(こ)していなければ…」。命を奪(うば)われた多くの友達を思い、「自分は生きていていいのか」と苦しみました。

 戦後は差別に直面しました。「被爆者だから」と就職(しゅうしょく)活動で不採用になり、交際相手の親戚から反対されて結婚(けっこん)を断られました。心を閉(と)ざした末の転機は、友人の紹介(しょうかい)で夫となる男性と出会ったことです。夫の仕事の関係で千葉県に移り、不安を抱(かか)えながらも2人の娘(むすめ)を産み育てました。

 次女は特に明るく活発でした。しかしがんの診断(しんだん)を受け、その4カ月後の2011年2月に45歳で亡くなりました。自分が被爆者だからなのか、と苦しみました。

 「こんな思いを誰(だれ)にもさせてはならない」と約40年前に体験を語る決意をし、活動を続けています。今、ロシアが核兵器(かくへいき)を使うと脅(おど)しています。「絶対に使わせてはいけない。自分の大切な人が核被害を受けないためには何ができると思いますか。一緒(いっしょ)に一歩を踏(ふ)み出しましょう」(湯浅梨奈)

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私たち10代の感想

過去ではなく今の問題

 「これは被爆者だけの話ではありません。あなたたちの身に起こること」という言葉が印象的でした。原爆で苦しむ人たちのことは、単に過去の事実ではなく現在の問題です。私(わたし)たちが平和の大切さを語り伝えるには、「当事者」として原爆の恐ろしさや平和の大切さを考えて、具体的に行動することが重要だと感じました。(中3吉田真結)

自分ごととして考える

 児玉さんは大切な人の命を失うたびに「自分は生きていてよかっただろうか」と苦しんだそうです。何度も「自分の身に置(お)き換(か)えて考えて」と話していました。そうすることで、命の大切さや尊(とうと)さを感じることができると思います。これからは、核兵器の恐(おそ)ろしさだけで終わらずに、自分ごととして考えることの重要性も発信したいです。(中2山下裕子)

(2022年4月4日朝刊掲載)

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