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連載・特集

[ウクライナ侵攻 被爆地の視座] 広島市の被爆体験証言者 梶本淑子さん(91)

核が招く悲劇 分かって

 ウクライナの街をテレビで見ると、胸が苦しくなるんです。建物を焼かれ、食料がない地下に押し込められている人々。わが子を抱き、立ちすくむ母親たち…。「逃げて」。テレビに向かって思わず叫んだこともあります。

 77年前を思い出すんです。あの日、広島もこうだった。

 爆心地から約2・3キロの三篠本町(現広島市西区)の軍需工場にいました。安田高等女学校(現安田女子中高)の3年生で14歳。学徒動員で飛行機のプロペラ部品を造っていました。

 工場の上の窓から強烈な青い光が差し、あっ、と思った瞬間、地球が爆発したような衝撃を感じました。目の前の床が上に吹き上がり、自分の体も浮いた。爆弾が工場を直撃したのだと思った。「死ぬるんだ」。そのまましばらく気を失っていました。

 しばらくして「助けて」という友達の叫び声で意識が戻りました。建物の下敷きになり、頭と手しか動かない。がれきに埋もれていた友達が懸命に柱を揺すって脱出し、私も何とかはい出ました。右腕にはガラスが刺さり、右足は柱の隙間から抜く際に骨が見えるほど傷を負いました。

 外の街は怖いくらいに静かでした。朝なのに薄暗く、灰色の大きな渦の中にいるよう。赤土と魚の腐ったような臭いがしました。「広島がなくなってる」。友達が言いました。にぎやかだった街は、がれきになっていました。

 ウクライナ侵攻でロシアは核兵器の使用をちらつかせています。「何も分かっとらん」と思うんです。原爆は、たくさんの命を一瞬にして奪い、街を壊した。でもそれだけじゃない。多くの人が放射線による健康被害に苦しめられた。原爆投下時には何の傷も負っていなくても、しばらくして髪の毛が抜け、血を吐き死んでいった人がたくさんいました。

 悲劇は今も続いています。被爆者は、子どもや孫が病気になると「私が原爆に遭ったからでは」と心配になるんです。

 これまでローマ教皇(法王)フランシスコたち国内外の要人に被爆証言をしてきました。でも核保有国に被爆地の声が本当に届いているのか、もどかしいのです。分かって、と思う。核兵器は、人類の悲劇を招くのです。(聞き手は編集委員・東海右佐衛門直柄)

(2022年4月3日朝刊掲載)

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