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連載・特集

山口の被爆者 第1部 岐路に立つ活動 <3> つなぐ 

あの日の体験 子に語る

市民と接点広げる

 ぼろぼろになった衣服をまとい、流れる血が描かれた人形。ほとんどの子どもたちは言葉を失っていた。初めてヒロシマと向き合う瞬間だった。

 広島市中区の原爆資料館。六月九日、修学旅行で訪れた山陽小野田市の高泊小六年の四十五人は、事前に被爆者から学んだ「あの日」の想像を超えていた。

 「原爆はとても残酷で悲しいものだった。二度と戦争は起こしちゃいけない」。磯部明子さん(11)は受け止めた。

 高泊小は、修学旅行の事前学習で、宇部市・小野田市原爆被害者協議会に被爆体験の語りを依頼している。今回も、六月一日、三戸満雄さん(80)と木下俊夫さん(73)が体験を語った。被爆直後の惨状、当時の子どもたちの暮らし…。

「明るい未来を」

 最後に、三戸さんは「自分ができることから始めてください。戦争のない明るい未来をつくってほしい」と呼び掛けた。

 三戸さんは、広島市中区白島の陸軍工兵隊に一九四五年八月一日に入隊した。五日後、兵舎で作業中、被爆した。

 戦後、中学校の教員になった。約四十年間、教壇に立ったが、生徒たちに被爆体験は話さなかった。「教えるのに一生懸命だった」。だが、「伝えないといけない」との思いが募り、六年前から語り始めた。

 県被団協の各支部では、地元の小中学校や県内を訪れた修学旅行生に被爆体験を語ってきた。平和の尊さを伝える証言活動である。この十年間で、約五百回にのぼる。

 支部では、証言活動に加え、継承として原爆展を開いている。

 五月にあった岩国市原爆被害者の会の原爆展。長崎市内の海軍病院の看護師だった大下美津副会長(81)は、八月九日の原爆投下から間もない診察の様子を撮った写真を持参して展示した。

 「一年、一年、今年が最後という気持ちで臨んでいるんですよ」と大下さん。会場を訪れた子どもたちに、写真の説明を繰り返し、被爆の惨状を語り続けた。

 会期中の四日間、来場者は千人を超えた。いつもの年の倍だった。

 「被爆者がいつまで活動できるか分からない。若い人に見てもらい、平和を考えてほしい」と、開催の前に川野忠義会長(73)たちは市内の小中学校六校を回った。市民団体や自治会には、チラシを配ってもらった。川野さんは「被爆七十周年はないとの被爆者の思いを、くみ取ってもらえたのだろう」と喜ぶ。

2支部で原爆展

 七月には、防府と宇部・小野田の両支部がそれぞれ原爆展を開く。

 周南市のJR徳山駅ビルにある市民交流センター。六月二十七日、センターのホームページや掲示板に登録した周南市被爆者の会の紹介が載った。市民との交流の接点を増やし、証言活動の機会を広げる試みだ。

 「大切なのは、肉声で戦争の悲惨さや命の重みを伝えること」。被爆二世で、会の事務局長を務める唐本佳代子さん(46)は力を込める。「被爆者が、いつまで語れるのか分からない。被爆者ほどの語りはできないかもしれない。でも、語りの継承は、体験を聞いて一緒に暮らしてきた二世の務め」と思っている。

(2005年7月1日朝刊掲載)

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