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連載・特集

山口の被爆者 第1部 岐路に立つ活動 <4> よりどころ

平和の拠点 ゆだ苑37年

朗読会や援護事業

 県原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」の扉をくぐると、小さな原爆資料館がある。原爆の熱線で溶けたビール瓶やぼろぼろになった学生服、被爆者たちが当時の惨状を描いた絵画…。その数は約千点に上る。

 その多くは、これまでのゆだ苑と被爆者たちとのつながりや、被爆者援護活動の軌跡を物語る資料だ。県被団協支部が開催する原爆展や小中学校の平和学習のため、貸し出しもする。

スタッフは3人

 スタッフは事務長の上野さえ子さん(56)渡辺栄次さん(56)岡千津子さん(55)の三人。開館当初から、ゆだ苑とともに歩み、被爆者に寄り添ってきた。

 「三人はきょうだいのよう。一人一人が、ゆだ苑を支える柱だ」。創設者の一人で、ゆだ苑の活動の礎を築いた元理事長の永松初馬さん=当時(66)=の言葉を、三人は胸にしっかり刻んでいる。

 原水禁運動の決裂が決定的になった一九六五年、県被団協は被爆者センターの建設に立ち上がった。永松さんをはじめ、被爆者や大学教授らが中心になって三年間、募金運動を展開した。

 ゆだ苑は六八年、被爆者たちの心のよりどころとして開館した。温泉付きの宿泊施設。上野さんら三人は、温泉湯の準備から部屋の掃除など休む間もなく働いた。

 同時に、被爆者救援活動が始まった。被爆者の実態調査、カルテを中心にした被爆者捜し、平和行進。幅広い活動を進めながら、被爆者健康手帳の交付手続きや被爆二世の結婚問題まで幅広い相談にも乗ってきた。

 上野さんと渡辺さんの身内に被爆者はいない。二人は「風呂上がりに、ロビーでぽつりぽつりと体験を明かす被爆者たちに接し、支援と継承への思いが芽生えた」と振り返る。

 山口市内の旧陸軍病院跡近くに七四年、原爆死没者の碑を建立した。毎年九月六日を「山口のヒロシマデー」と名付け、被爆死没者の追悼と恒久平和を願う式典を開く。

 「山口の被爆者運動が、純粋に平和運動として展開できたのは、ゆだ苑という拠点があったからだ」。被爆者相談員の研修会講師で山口を訪れる、日本被団協中央相談所の肥田舜太郎理事長(88)は強調する。

転換点を迎える

 だが、被爆者の高齢化に直面する。平和の尊さを情熱を持って訴えた被爆者たちが、亡くなっていく。「ゆだ苑が、何をする施設か知らない人も増えた」。大きな転換点を迎えて、上野さんは焦る。

 九五年、資金難から土地と建物を自治労県本部に売却した。今は自治労会館の一階に間借りする。業務を縮小した分、相談や検診、被爆者への訪問に力を注ぐ。

 被爆六十周年の今年、九〇年から始めた被爆体験を記す一筆運動を、冊子にまとめて小中学校に配る。今月三日に吉永小百合さんの原爆詩朗読会を開いた。入場者に、ゆだ苑の歴史と活動を紹介するパンフレットを配った。折り鶴用の折り紙一枚が付いていた。

 「六十年を機に、多くの人にゆだ苑を知ってもらいたい。被爆者援護と核兵器廃絶を訴える県民センターとして役割を果たしたい」。開館から三十七年、変わらぬ思いで歩んできた三人があらためて決意を固める。

(2005年7月6日朝刊掲載)

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