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連載・特集

山口の被爆者 第2部 60年目の夏 <上> 守る

亡父の資料館 家族運営

平和の意義伝える

 広島に原爆が投下された八月六日を迎える。運命を変えた「あの日」。山口の被爆者や家族たちは、その後の人生に、どんな思いで向き合ってきたのか。六十年目の夏を追った。(有岡英俊)

私費投じて開館

 周南市上村に小さな原爆資料館「原爆雲記念館」がある。被爆間もない広島の上空を飛んだ元陸軍パイロット、故安沢松夫さん=当時(88)=が一九九三年八月、自宅敷地内に私費約四百万円を投じて、開館した。

 当時、身に着けていた飛行帽やブーツ、愛機の手作り模型、数多くの原爆関連の新聞記事…。資料館は木造平屋建て。約二十平方メートルのスペースに、数百点が狭いながらも整然と並ぶ。見学に訪れ、平和について学んだ児童らが、安沢さんにあてた寄せ書きや千羽鶴が彩りを添えている。

 安沢さんは一九四五年八月六日、下関市小月にあった第一二飛行師団司令部から上官を乗せ、広島市の吉島飛行場に着陸した。その直後、原爆がさく裂した。

 部隊に惨状を伝えようと、爆風で胴体が曲がった自分の機体で小月に舞い戻った。輸送機に乗り換え、水や食料などの救援物資を積んで再び広島へ。「一人でも多く助けたかった」。生前、安沢さんがよく口にしていた言葉だ。

 七〇年、広島市中区の原爆資料館を訪れた。「もっと被爆の実相を伝えなければ」と小学校で被爆体験を語り始めた。数多くの手記も残した。亡くなる十年前から肺気腫と診断され携帯用の酸素吸入器が手放せなかった。

 記念館には、一日数人が訪れた。「どんなに体調が悪くても、自分の体験や資料について、懸命に説明していた」。妻房子さん(85)は振り返る。

 夫の思いを継ごうと、小さな記念館で来館者を迎えていた。しかし、数カ月前から体調が思わしくない。最近は床に伏せることが多くなった。

 主のいなくなった今も、一カ月に一組か、二組の来館者がある。房子さんに代わって、近くの二男、啓次さん(56)ら四人の兄弟とその家族が日程が合えば、応対している。啓次さんは「父のように説明はできないが、少しでもこの記念館の意義を伝えたい」。

03年に亡くなる

 開館から十年後の二〇〇三年九月、安沢さんは肺炎で亡くなった。記念館について、遺言はなかった。房子さんは「少なくても来館者があるうちは、体が続く限りは、管理したい。できれば、子や孫たちが引き継いでくれたら」と願う。

 安沢さんは毎年八月六日午前八時十五分、記念館で黙とうをしていた。昨年からは房子さんが冥福を祈る。

 安沢さんが資料館で説明する時、必ず、そばに房子さんがいた。誰よりも身近で被爆体験を聞き続けた。「夫の平和への願いの一番の賛同者かもしれない」と房子さん。今年も思い出の記念館で、夫をしのびながら静かに祈る。

(2005年8月5日朝刊掲載)

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