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連載・特集

山口の被爆者 第2部 60年目の夏 <中> カルテ

軍人の大半 「死亡」で退院

惨状示す重要資料

 退院の理由に「死亡」と記された多くのカルテの写真がある。県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑が保管する被爆軍人らの「病床日誌」。千四十二人の被爆者の名前や所属部隊、安否や入院時の症状が書き込んである。うち74%にあたる七百七十三人の退院理由の項目が、死亡となっている。

1042人の治療記録

 ゆだ苑によると、カルテ千四十二人分は、下関市豊浦町の国立山口病院が百三十二人分、柳井市の国立療養所柳井病院が九百十人分。山口病院は山口市にあった山口陸軍病院から、柳井病院は広島市中区基町にあった広島第一陸軍病院からそれぞれ持ち込まれた。いずれも被爆後二カ月の一九四五年十月までの治療記録だ。

 このカルテの写真を、広島第一陸軍病院の元軍医が今年六月下旬、ゆだ苑で一枚一枚、手にした。職員に、患者を治療した時を思い出すように語りかける。自らが記入した六十年前の文字をたどった。

 日本被団協中央相談所理事長の肥田舜太郎さん(88)=さいたま市浦和区。「記憶を呼び起こしたい」とひもといた。「これだけ多くの人が亡くなったのかと思うと、あらためて資料の重みを感じる」

 肥田さんは「あの日」、東区戸坂町の往診先で被爆した。病院では数多くの重傷患者を手当てした。四五年十二月から四八年三月まで、国立療養所柳井病院に勤務し、延べ六千人に上る被爆者の治療にあたった。陸軍病院から柳井病院にカルテを移した本人である。

 カルテは、被爆から二十六年がたった七一年夏に見つかった。ゆだ苑が被爆者の証言などから存在を突きとめた。死没者捜しや被爆者健康手帳の申請に役立てるため、三日間かけてカメラに写し、保存した。ゆだ苑が開館して三年目の「大発見」だった。

 その写真を八八年、ゆだ苑理事で、当時山口大教授だった貞木展生さん(71)が「死没者調査などに利用しやすいように」と、データをコンピューターに入力し、リストを作成した。広島市は同年から、そのリストを被爆者の名前や被爆地などを確認する「被爆者動態調査」に活用している。

 肥田さんは以前、カルテの写真を見ていた。リストの存在も知っていた。

 広島陸軍病院は中区基町に第一、第二があった。今は第二陸軍病院跡に慰霊碑がある。毎年八月六日、肥田さんはその慰霊碑前に立つ。訪れる遺族らに、当時の様子を説明するためだ。十年前から続けている。被爆六十周年の今年は、ささやかな追悼式が予定されている。

伝承方法を思案

 ただ、慰霊碑を訪れる遺族は高齢化で年々減っている。肥田さんは「この場所であったことを、遺族らに語り継ぐためにどうしたらいいのか」と思案する。数多くの犠牲者を歴然と示すカルテの写真。次世代に核兵器の悲惨さを伝える貴重な資料だ。今、再び光を当てようと考えている。

 遺族とともに、陸軍病院の関係者も高齢化で少なくなった。肥田さんは「今となっては、私しかできないし、使命だと思っている」。六日、この決意を秘め、いつもの年と同じように慰霊碑の前に立つ。

(2005年8月6日朝刊掲載)

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