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連載・特集

山口の被爆者 第2部 60年目の夏 <下> 親子

残された2人 共に生活

節目に広島で慰霊

 今年が最後になるかもしれない―。共に被爆者の周南市呼坂、八百村キクエさん(93)と長女稲垣方子(まさこ)さん(73)は六日、広島市中区の平和記念公園を訪れた。原爆の日に、二人そろって来たのは、十数年ぶりになる。一瞬にして最愛の家族を失ったあの日から六十年。「節目の年に、どうしても二人で来たかった」。苦労を共にしてきた親子に安堵(あんど)の表情が浮かぶ。

 キクエさんは、貴金属職人の夫忠夫さんとの間に七人の子を授かった。戦時中に養子に出したり、病死したりで、被爆当時の子どもは方子さん含め四人だった。

 八月六日の朝。澄んだ青空に、B29の機体がキラキラ光った。キクエさんはなぜか、その姿を美しいと感じたという。自宅近くの中区南竹屋町の路上で、空を見上げていた。閃光(せんこう)と耳を裂く爆音。体が吹き飛んだ。

背中 熱線浴びる

 背中から熱線を浴びた。背負っていた四女稔子ちゃん=当時(3つ)=とともに全身にやけどを負う。キクエさんは意識を失い、被爆直後の記憶がない。自宅にいた三女と二男は家の下敷きになって亡くなった。方子さんは西区の高等女学校に通っていて無事だった。

 稔子ちゃんは十二日に、息を引き取る。「えーてーちゃん(お姉ちゃん)」。まだうまく言えない、幼い稔子ちゃんが亡くなる前日、方子さんを呼んだ。最後の言葉になった。

 方子さんは、稔子ちゃんに自分のお気に入りの浴衣を着せ、自ら遺体に火を付けた。「肉親同士でこんなことをさせるなんて、原爆が憎い」。キクエさんは半年間寝たきりになった。

 忠夫さん=当時(40)=も被爆がもとで二年後、病死し、母と娘二人きりになった。広島国税局に勤めていた方子さんは一九五二(昭和二十七)年、圭一郎さん(79)と職場結婚。「母一人、子一人。誰が母の面倒をみるのか。結婚はできないと思っていた」。夫の理解で、母と一緒に嫁ぎ先での暮らしが始まる。

 二年後、圭一郎さんの転職に伴い、家族そろって周南市へ。子どもが大きくなるまでキクエさんが共働きの家庭を支えた。ケロイドが残る右手は指がうまく曲がらない。「不自由な手で何でもやってくれた。母のおかげで子どもに寂しい思いをさせずにすんだ」。方子さんは感謝する。

名簿に4人の名

 この日、二人は、周南市被爆者の会のメンバーらとともにバスで、広島入りした。原爆慰霊碑の石室に納められている死没者名簿には、被爆で亡くなった四人の家族の名前がある。

 「あの子たちはもっと苦しんだ。楽をしたら、申し訳ない」と用意してきた車いすを使わず、慰霊碑まで歩いた。傍らの方子さんがそっと腕を引く。

 方子さんは「この六十年、母が生きていてくれた」とかみしめる。「方子と亡くなった三人の子どもたちに生かせてもらっている」とキクエさん。二人は慰霊碑前に並んで、しっかりと手を合わせた。

(2005年8月9日朝刊掲載)

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