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連載・特集

山口の被爆者 未来へ 可愛川(えのかわ)孝雄さん(64)=小郡町下郷

続く戦争 怒りと焦り

 9月6日、県内の被爆者たちは「山口のヒロシマデー」を迎える。被爆兵士の遺骨が1973年、山口市宮野の墓地で発掘されたのを機に設けられた山口の「原爆の日」。被爆した地を離れ、それぞれの年月を重ねてきた60年。平和を願い続ける被爆者のつなぐ営みが今、加速する。(有岡英俊)

平和を願い体験伝える

 被爆後、安芸高田市の親類宅で小学六年の夏まで過ごし、父の住む広島市中区白島の自宅に戻った。高校を卒業し、広島市内の大学に進学。会計事務所の経理事務、運送会社の梱包(こんぽう)作業などアルバイトして学資を稼いだ。

がむしゃらに働く

 大学卒業後、三十歳で東京に本社がある製薬会社に入社した。三十年間、営業畑一筋だった。広島、島根、鳥取、福岡県など中国、九州地方を転々とした。「人には負けたくない」とがむしゃらに働いた。「母親はいない。泣き言を言う相手はいなかった」。原爆で家族を失った悲しみを負けん気の強さで乗り越えてきた。

 一九八七年から、最後の勤務地の小郡町で暮らす。六年前、県被団協の休日巡回検診で、竹田国康会長に誘われ、山口・小郡地区原爆被害者の会に入った。

 一昨年、山口市内で初めて被爆体験を語る機会を得た。遺骨すら見つからない姉、幼くして亡くなった妹、次第にゆるんでいく母の手の感触…。「思い出して語るものではない。魂に刻まれているんだ」。こみ上げてくる感情が口を閉ざした。

 いまだ、世界で続く戦争や紛争。被爆者の平和への願いがないがしろにされる。核実験を繰り返す核保有国。「家族を一瞬で失った被爆者の思いは届かない」。怒りと焦りが募る。「次世代に語るしかない」。決意は徐々に固まった。

 「自分だけ生き残って良かったのか。自分の心の中には、今も原爆の灼(しゃく)熱(ねつ)が渦巻いている」。県原爆被爆者福祉会館「ゆだ苑」が今月九日に開いた語る会で、胸の内をあらためて吐露した。被爆六十周年の節目の意識も、駆り立てた。涙は止まらなかった。絞り出すような声だった。

心の整理がつかず

 「どうやって伝えたらいいのか」。「あの日」から六十年たった今も、伝えなければとの使命感と、いまだ悲しみを乗り越えられない気持ちが交錯する。心の整理はつかない。

 「ゴールのないマラソンをしている気分だ。ゴールが見つかるとも思えない。亡くなった家族に生かされているという思いを胸に刻み、しっかり生きていきたい」

 ≪私の8・6≫爆心地から1・7キロの広島市中区白島の自宅で母と妹と被爆。当時4歳だった。母君子さん=当時(35)=は柱の下敷きになり、可愛川さんの手を握りしめたまま亡くなった。2歳の妹直恵ちゃんも2カ月後に「お母ちゃん」と泣きながら息を引き取った。中学2年生だった姉幸恵さん=当時(13)=は中区中島町で建物疎開の作業中に被爆。遺骨は見つかっていない。入市被爆した父謙一さんは1984年に78歳で他界した。

(2005年8月26日朝刊掲載)

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