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連載・特集

山口の被爆者 未来へ 大下美津さん(81)=岩国市平田 幼子ら治療 まさに地獄

命の重さ痛感 沈黙破る

 岩国市の国立岩国病院(現国立病院機構岩国医療センター)で終戦の翌年、一九四六年から八四年十二月までの約三十九年間、看護師として働いた。看護婦長も務めた。「やめたいとは、一度も思わなかった」

 六十年前の夏、長崎県大村市の大村海軍病院にいた。被爆直後、千人を超す被爆者が運ばれ、病室や廊下が埋め尽くされた。

 「助けて」

 「お母さん」

 男性とも女性とも判別できない人たちが叫び、うめき、息絶えていく。

 「まさに地獄だった」

 家族にみとられず、一人で死んでいく幼子。「一分でも長く付き添ってあげたい」。こんな感情が自然とわいた。戦後も看護師を続けた原点となった。

 しかし、岩国で、同僚に長崎で被爆者を治療した経験は明かさなかった。「話すものではない、話してはいけない」。結婚差別や生まれて来るであろうわが子への影響。口を重くした。七九年に他界した夫の忠重さん=当時(63)=には一度も語らなかった。

 親がわが子を殺害するなど、全国で幼い命が犠牲になる暗いニュースに心を痛める。「なぜ、ひどい…」。死と向き合い、命の重さを知っているだけに許せなかった。

 「少しでも命の尊さを感じてほしい」。五年前から、被爆体験を語り始めた。将来の健康に不安を抱き、二人の娘には情報が得られる被爆二世の会への入会を勧めた。

 今、岩国市原爆被害者の会の副会長を務める。毎年、同市内で開く原爆展。必ず、大村海軍病院に入院していた被爆者の写真パネルを飾る。

 「子どもには残酷な写真。でも、広島も長崎も同じ。知らなければいけない現実なんです」  自分が世話をした患者の写真もある。今でも、よく手に取って見る。当時の記憶をより鮮明に呼び起こし、継承への気持ちを確認する。

 「過ぎ去れば、六十年はあっという間。子どもは国の宝でしょう。幼い命を大切にしないのは、若い親だけの責任じゃない。その親は私たちの世代なんだから」。つなぐ気持ちが高ぶる。

 今も、岩国医療センターでボランティアとして、車いすの介助など外来患者をサポートする。

 ≪私の8・9≫大田市出身。5歳の時、母ハマさん=当時(41)=の病死をきっかけに看護師を目指す。1943年、日本赤十字社島根支部の救護班として長崎県大村市の大村海軍病院に派遣。45年8月9日午前11時2分、長崎市に原爆投下。病院は爆心地から約20キロ離れ、直接被爆は免れた。同年11月末までの約3カ月間、被爆者の治療に当たった。

(2005年8月30日朝刊掲載)

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