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連載・特集

山口の被爆者 未来へ 金清陽子さん(59)=下松市西豊井 「胎内」の体験 心に深く

長男出産時に影響心配

 被爆した事実に初めて向き合ったのは、一九七一年の長男尚浩さん(34)を出産する時だった。「健康に育ってほしい」。放射能が身体に及ぼす影響を心配した。

 被爆から一カ月後、父吾一さんの実家がある由宇町に移り住んだ。山口市内の短大を卒業した後、岩国市で三年間、会社に勤務した。

 胎内被爆の事実と「あの日」の惨状は、幼いころに母美登里さんから聞いた。

 原爆が投下された時、母は立っていた場所が違っていたら、大やけどを負っていたかもしれなかったという。投下直後、広島市西区己斐中町の自宅近くの小学校には、大勢の傷ついた被爆者や遺体が運ばれた。身重だった母は、被爆者のやけどの手当てをした。

3人の子すくすく

 二十四歳で会社員の二郎さん(63)と結婚した。そのとき、胎内被爆したことを伝えた。三人の子どもは健康に育った。「周囲から偏見や差別はなかった。自分は被爆者だと、特に意識したことはなかった」

 十数年前、テレビで胎内被爆した原爆小頭症の女性の存在を知った。苦しむ姿を見た。「被爆者」を、より強く意識した。

 さらに、父が手続きをしてくれた被爆者健康手帳の存在も意識を高めた。「世間からみれば、自分は被爆者なんだ」

 約二十年前から、下松市原爆被害者の会の会計を担当している。総会の資料の作成や、被爆者相談員として、健康相談などにも応じている。

会での活動に懸命

 「被爆者援護法に基づく保護を受け、申し訳ない思いもある。高齢化が進む被爆者の中で、若い自分が一番動かないといけない」。しかし、記憶の中に、確かな被爆体験はない。胎内被爆。その苦悩が、会での活動へと突き動かす。

 今年八月六日、山口県の被爆者代表として、初めて広島市の平和記念式典に参列した。「被爆六十周年は、五十周年からただ十年を積み重ねた節目ではない。同じ胎内被爆をした人が、どれだけ無事に還暦を迎えられたのだろう」。あらためて六十年の意味の重さを見つめ直している。

 〈私の8・6〉金清さんを身ごもっていた母美登里さんは爆心地から約3キロ離れた、広島市西区己斐中町の自宅で被爆。5カ月後の1946年1月、金清さんが生まれた。父吾一さんは東京に出張中。2人の兄も無事だった。被爆直後、美登里さんは自宅近くの小学校で、被爆者のやけどの手当てをした。76年に吾一さん=当時(77)=が、2000年に美登里さん=同(89)=が亡くなった。

(2005年9月3日朝刊掲載)

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