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連載・特集

山口の被爆者 未来へ 河井猛さん(67)=防府市江泊 孤児 周囲の支えで成長

家族がいる幸せを実感

 「たけし…」。大けがを負った父は船上で、幼いわが子を呼んだ。か細い声だった。小さな船は乗り込んできた人たちの重みで沈んだ。板につかまり、一緒に対岸を目指した父は、無言で太田川の水にのみこまれた。「名前を呼ばれていたら、自分も後を追ったかもしれない」。父の最後の優しさだと信じている。

 原爆で独りぼっちになった。被爆孤児。広島市郊外の農家に預けられた。夜中に抜け出し、市内へ母と弟の遺骨を捜しに行った。同市西区楠木町にあった自宅の焼け跡のトタン板の上に二人の遺骨があった。「何の感情もわかなかった」

祖母と叔父と生活

 被爆から約一カ月後、周防大島町の父の実家に引き取られた。七歳だった。八年間、祖母と叔父の家族と暮らした。

 ある日、空腹からご飯を隠れて食べた。祖母ヤスさんは、しからずに泣いた。「人間の心は木の根と同じ。しっかり心の根を張って、真っすぐ歩きなさい」。いつも枕元でヤスさんにそう言い聞かされてきた。

 周囲に被爆者はいなかった。いつも一緒に学校に通ったり、勉強を教えてくれたりする親友がいた。「家族、友人、先生…。多くの人との出会いと支えで、道を踏み外すこともなかった」と振り返る。

 中学卒業後、「父と家族と住んでいた広島で働きたい」と希望したが、祖母が猛反対。母親の親類を頼り、防府市内の鉄工所に就職した。溶接工として技術を身に付けた。

4年前に沈黙破る

 ヤスさんは一九六一年一月、八十六歳で亡くなった。職場で知り合った同い年の栄子さんと三カ月後に控えた結婚の報告をして間もなくだった。「人生の岐路に立ったとき、父が、母が、祖母が背中を押してくれた」

 二十五年前から、八月六日には必ず家族で広島市中区の平和記念公園を訪れる。二人の娘は小学校の先生だ。五人の孫たちは家に来ると、真っ先に仏壇に手を合わせる。「家族を大切に思う気持ちを持ってくれている」。喜びを感じる。

 四年前、被爆体験の語りを始めた。「あの日」から六十年たった今も話す度に涙があふれる。「お父さん、お母さんと呼べる人がいる。当たり前のことが幸せなんです」(有岡英俊)=おわり

 〈私の8・6〉父福一さん=当時(48)=は広島市西区楠木町の自宅近くの研磨工場で、母ハルさん=当時(38)=と弟の勝美ちゃん=(2つ)=は自宅で、河井さんは当時小学校の校舎代わりだった町内の寺で被爆。ハルさんと、勝美ちゃんは自宅の焼け跡から遺骨が見つかった。研磨工場が面していた太田川の船上で、大けがをして血だらけの父と再会。懸命に体をふいた。船は沈没し、父と一緒に板につかまった。対岸にたどりついた時、父の姿はなかった。

(2005年9月9日朝刊掲載)

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