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[ヒロシマの空白 証しを残す] きのこ雲撮影カメラを寄贈 中国新聞社へ元社員山田精三さん 爆発2分後捉える

 原爆投下直後にきのこ雲を撮影した山田精三さん(93)=広島県府中町=が、当時使ったカメラを中国新聞社(広島市中区)へ寄贈した。さく裂から2分後にシャッターを切ったとみられ、地上から捉えた原子雲としては最も早い写真記録とされる。(桑島美帆)

 大阪市にあった藤本写真機製作所(現ケンコー・トキナー)が1940年に発売した「セミスポーツ」で、縦12センチ横8センチの蛇腹折り畳み式。当時17歳で、夜間中学に通いながら中国新聞社でアルバイトをしていた山田さんは、自宅近くの水分(みくまり)峡(府中町)入り口で朱色の雲を目撃した。爆心地から約6キロ。「なんじゃ、あれは。きれいじゃのう」と、持参していたカメラでとっさに撮影したという。

 その写真が世に出たのは、連合国軍総司令部(GHQ)により戦後のプレスコード(検閲)が敷かれていた46年だった。7月6日発行の「夕刊ひろしま」で「世紀の記録写真」「原子爆弾炸裂(さくれつ)の直後、茸(きのこ)型に開いたところ」と紹介された。現在、原爆資料館の本館入り口付近で縦3・8メートル横2・7メートルに引き伸ばして展示されている。原爆投下任務を遂行した米軍による上空撮影とは違う、きのこ雲の下の市民の目線を象徴する一枚だ。

 山田さんは戦後、本紙記者として勤務した。長男泰久さん(65)によると、父から「これできのこ雲を撮った」とセミスポーツについて聞かされていたが、その後所在不明に。9年前に他界した家族の遺品を整理中、カメラが見つかった。

 山田さんが寄贈を決めたのは、昨年末に本紙取材で被爆体験を証言したことがきっかけだ。写真について「100年後に見た人が、これが広島に落ちた原爆じゃということを知ってほしい」と語っていた。カメラは、表面が剝がれるなど劣化が進む。長女文さん(56)たちに相談し、「預けた方が安心」と思い至った。

 藤本写真機製作所でセミスポーツ製造に携わった故高橋健三元社長の孫、光太郎さん(50)=東京都=は「高級品だったドイツ製をモデルに一般向けに開発したと聞いている。祖父が手がけた製品で歴史的な瞬間が写されていたとは。驚いている」と話す。中国新聞社は、惨禍を記録したカメラを大切に保管するとともに、今年の創刊130周年を記念して展示公開する予定だ。

(2022年4月10日朝刊掲載)

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