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連載・特集

ビキニ被災50年 第1部 マーシャルの島民たち <1> 老い

かなわぬ帰島 体を病む

 海はサファイア色に輝き、白いサンゴ礁がまぶしい。中部太平洋マーシャル諸島。一九五四年三月一日、この海を赤く染め、死の灰を降らせた核実験があった。実施した当の米国は「ブラボー」と名付けた。だが、島民にとって、近くで操業していた日本のマグロ漁船第五福竜丸の乗組員たちにとって、そして核拡散が続く世界にとって、実験は喝さいどころか、苦難の半世紀の始まりであった。福竜丸被災から五十年を迎える今年、マーシャルの人々を訪ねた。(森田裕美)

 メジャトは、桟橋もない小島だ。面積約五百平方メートルに約四百人が暮らすと聞いていた。さぞにぎやかだろうと訪ねると、静けさに包まれていた。

座っているだけ

 ビキニ環礁の東にあるロンゲラップ環礁の住民は、核実験「ブラボー」の死の灰を浴びるまで、その怖さを知らされていなかった。いったん他島へ避難させられ、安全だと言われて三年後に帰ると、残留放射能に汚染されていた。

 一九八五年、環境保護団体グリーンピースの船に乗って脱出。向かったメジャトは、無人の島だった。島民の多くは仕事や子どもの教育のためにと、首都マジュロや、米軍基地に近い人口密集地イバイに出ていく。今、何人残っているのか、統計数字はない。

 「座っているのさ」。出会った人々に、ふだんの暮らしぶりをたずねると、同じ答えが返ってくる。住居以外には、小学校と診療所くらい。三カ月に一度の食糧援助に頼って暮らす。

 島で最年長の「ヒバクシャ」、ミジュア・アンジャインさん(79)宅を訪ねた。薄暗い土間を抜けた六畳ほどの部屋で、三人の娘に支えられ、ココナツミルクとコーンスターチを煮込んだ「リコラ」を口に運んでもらっていた。ブラボー以来、甲状腺がんなど多くの病気を経験した。ここ数年は、脳腫瘍(しゅよう)が悪化しているという。話すこともままならない。

 「昔はよく、ロンゲラップのことを話していたけど、もうできない」。首都マジュロから介護のため駆け付けた長女ドルシーさん(58)はそう言って、ミジュアさんの足に触れた。皮膚がまだらな部分は、「死の灰」のやけどのあとだと説明する。

 「元気なうちにロンゲラップに帰りたい、帰りたいと言っていたけど、この状態じゃ…」。二女グロリアさん(39)、三女リーマンマンさん(34)もため息をもらす。

援護訴え続ける

 ミジュアさんの元夫ジョン・アンジャインさん(82)は、ブラボー当時のロンゲラップ村長。イバイで会った。米国や日本にも出かけ、援護を訴え続けてきたヒバクシャたちのリーダー的存在だ。

 「ロンゲラップは素晴らしい所。でも、島にはラディエーション(放射線)がついているから、帰れない私たちはかわいそうです」。日本の占領時代に覚えた日本語で、記憶をたどるように、とつとつと話し始めた。

 「177(健康管理事業)が打ち切られそうなことを、日本の人たちにも聞いてもらいたい。でもすっかりおじいさん。体中の関節が痛くて昔のようにはいきませんね」

 ロンゲラップで死の灰を浴びたのは八十六人。半世紀を経た今、三十三人に減った。実験をした米国にも、伝えたいことは山ほどある。「ラディエーションの怖さを訴える人が、いなくなる」。つえを突く手が震えた。

(2004年2月12日朝刊掲載)

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