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「地上の楽園」貧困と迫害と 広島から北朝鮮。そして脱北…朴さんに聞く

「住むところではない」兄2人息子2人連行・不明

 約60年前に始まり、9万3千人以上の在日朝鮮人たちが海を渡った「北朝鮮帰還事業」。「地上の楽園」と宣伝された地で多くが貧困と迫害に苦しんだ。広島市から北朝鮮に渡り、今は脱北し韓国・ソウルで暮らす朴静順(パク・ジョンスン)さん(81)もその一人。日本在住の脱北者が北朝鮮政府を相手取って2018年に東京地裁に提訴するなど、今なお続く問題だ。朴さんの言葉でたどる。(高本友子)

 朴さんは、日本統治下の朝鮮半島から渡ってきた両親の元、1940年に現在の西区で生まれた。原爆投下時は広島県北部に疎開しており、被爆は免れた。戦後も両親と10人きょうだいの暮らしは貧しかった。高校には進学せず無料の夜間学校に通った。広島市内の音楽喫茶「ムシカ」でアルバイトをして家計を助けた。「生活は苦しかったけれど恋もした。いい思い出です」

 59年、日本と北朝鮮の両政府の了解で帰還事業が始まる。植民地支配と戦争に翻弄(ほんろう)され、貧困や差別を強いられてきた在日朝鮮人たちは、新たな生活を求めて海を渡った。ただ、現在の韓国・大邱(テグ)広域市の出身だった両親は当初、前向きではなかった。

 朴さんの家族が帰還事業と向き合うのは60年だ。当時17歳の弟が在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の関係者から「ソ連の大学に進学できる」と説明され、帰還を強く望んだ。お金がなく学校に通えなかったからだ。両親と7人のきょうだいは60、61年に次々と北朝鮮に渡った。朴さんと兄と姉の3人が日本に残った。

 北朝鮮の実態をつづった告発本を読んでおり、帰還の意志はなかったという朴さん。62年、北朝鮮の家族から「父がもうもたない」と手紙が来ると「どうしてもお父さんに会いたくて」。その年の12月、1人で新潟港から海を渡った。

「帰還を後悔」

 北朝鮮北部の清津(チョンジン)港に降りてすぐ「ここは住むところではない」と悟った。真冬なのに市民は薄いもんぺ姿で震えながら歩いていた。帰還者の教育センターでは「ここから出たら何の不満も言ってはならない」と指導された。家族が住む新義州(シニジュ)市に着いた時、父はもう亡くなっていた。「帰還を後悔しました」

 横浜市からの帰還者の男性と63年に結婚し、3人の子どもを産んだ。配給では食べていけず、福山市に住む兄の仕送りを家族で分け合った。日本から持ってきた服は食べ物と交換した。

 「苦難の行軍」と呼ばれる90年代後半の大飢饉(ききん)で貧しさは一層増した。冬のある日、女性に食事を乞われた。夕食の残りをあげたが翌朝、女性は家の前で亡くなっていた。「彼女は最期に食事ができただけよかった」。そう思うほど道で飢え、凍え、亡くなる人が多かった。

 3人のわが子のうち、息子2人は生死不明のままだ。長男は84年に21歳で学校に行ったきり帰ってこなかった。次男は94年に28歳の時、警察に連行された。2人とも国の不平を言ったために収容所に入れられたと思われるが、真実は分からない。理由を探ることも「息子に会いたい」と周囲に漏らすことも許されなかった。朴さんの兄2人も84年に収容された。1人は収容所で病死した。1人の生死は分からない。

「自由が一番」

 次男と94年に連絡を取れなくなった後、朴さんは夫と農村部へと送られ、生活はより厳しくなった。97年7月に夫が亡くなり「脱北」を決めた。同年10月、台湾人ブローカーを頼って娘と娘の夫、2歳の孫娘の4人で川を渡り中国へ逃れた。大連市で1年半ほど暮らし、99年5月、偽造パスポートで韓国へ入った。

 ソウルの空港を出て車に乗っている時、ミュージカルの広告を見た。「これからはこういうの見ていいんだ」と思った。

 韓国に移住し約20年。ミュージカルも見に行った。韓国のメディアでも証言してきたが、本名と年齢は初めて明かした。北朝鮮に残ったきょうだいたちへの影響をずっと恐れてきたが、今回「本当に起こったことを語り残したい」と決意した。「貧しい思いは日本でもしました。でも今思えば、広島は私の青春の場所でありがたい暮らしでした。自由があることが一番なんです」

北朝鮮帰還事業
 日本と北朝鮮の両政府の了解に基づき、1959年12月から日朝両赤十字が実施した。いずれも48年建国の韓国と北朝鮮が、50年に始まった朝鮮戦争を経て東西冷戦の最前線となっていた時期と重なる。

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)などが主導し、中断期間を経て84年までに在日朝鮮人や日本人配偶者たち約9万3千人が渡航した。日本社会で差別や貧困に苦しみ、法的にも不安定な地位に置かれた人たちは「地上の楽園」に活路を求めた。実際には、多くが朝鮮半島南部の出身者。帰還後、過酷な生活環境や貧困、差別に直面した。強制収容所に収監され亡くなる人もいたとされる。

 日本に戻った脱北者5人は2018年8月、人権が抑圧された生活を強いられたとして、北朝鮮政府に損害賠償を求めて東京地裁に提訴。地裁は今年3月、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」などを理由に訴えを棄却した。4月4日、原告側は判決を不服として東京高裁に控訴した。

(2022年4月12日朝刊掲載)

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