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連載・特集

ビキニ被災50年 第1部 マーシャルの島民たち <3> 翻弄

強制移住 古里失い「流浪」

 マーシャル諸島の首都マジュロに、遠く離れたビキニ、ロンゲラップ両環礁の自治体政府が並んで事務所を設けている。ここで執務するビキニのエルドン・ノート首長(44)に会った。「私たちは、いかだで暮らすしかない流浪の民」。古里を離れて転々とし、今も散り散りに暮らす同郷の仲間たちの状況を、皮肉をこめてそう表現した。

「骨だけでも…」

 五十年前、核実験「ブラボー」がさく裂したビキニ環礁。その出身者や子孫たちが事務所の前に連日、各地から来て座っている。「事務所に用はないけど、古里がない私たちにとって、ここが唯一の居場所なんだ」。小島キリから来たというチョウジ・ライソさん(78)がつぶやいた。「ビキニはもう元に戻らないだろう。でも骨だけでも埋めてほしいなあ」

 ビキニの人たちの難民生活が始まったのは、ブラボーからさらに八年さかのぼる一九四六年だった。ここを核実験場に決めた米国は、「人類の平和のため」との理由で、当時の住民たち百六十六人を二百三十キロ東のロンゲリック環礁に強制移住させた。

 その後も住民たちは、今度は理由も聞かされないまま、南へ転々とさせられた。クワジェリン環礁、さらにキリ島へ。そこからはるか約八百キロ北の古里はこの間、五八年までに計二十三回、きのこ雲で覆われた。

 七三年、当時のジョンソン米大統領が、ビキニの「安全宣言」を出す。だが、翻弄(ほんろう)はさらに続く。

 宣言を受け、一部の家族はキリからビキニへ戻る。ケーレン・ジョアシさん(74)もその一人。久しぶりの古里暮らしではなぜか、腰、体中の関節や筋肉が痛んだという。「放射能のせいだ」とジョアシさん。裏付けるかのように七八年、島民たちの放射線量を測定していた米国は突然、ビキニ環礁を閉鎖した。

 再びキリへ戻されようとしたのを、ジョアシさんたちは拒んだ。環礁ではないため、海岸線が荒波に直接洗われる。漁に出られない。補償金で住居や電化製品に恵まれても、援助される食糧で暮らす日々にあらがい、首都マジュロからボートで十分足らずのエジットに移った。

核悪魔だと証明

 一平方キロメートルもない小島に今、同郷の約三百人と暮らす。街に近く、暮らしは悪くない―とジョアシさん。でも、すっきりしない。「古里で核兵器が開発され、みんな被害に遭った。米国はどうして、あんな実験をしたのか。そして今も核兵器をたくさん持っているのだろう。核は悪魔だと、私たちが証明したではないか」。一気にまくしたてた。

 ビキニの人たち計四千人は、主にマジュロ、エジット、キリの三カ所でそれぞれ、コミュニティーをつくっている。ほとんどが古里を知らない。最初の強制移住前のビキニで生まれた人は、ジョアシさんたちわずか十人になった。

(2004年2月14日朝刊掲載)

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