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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 笹森恵子さん―大やけどの顔 渡米治療

笹森恵子(ささもりしげこ)さん(89)=米国カリフォルニア州

原爆投下国で看護の道 「命の尊さ」訴え

 原爆に焼かれ、顔などに大やけどを負った若い女性たちが、被爆から10年後に治療(ちりょう)のため米国へと渡りました。笹森(旧姓・新本(にいもと))恵子さん(89)はその一人。「たくさんの人に助けられて今がある。命ある限り恩返しを」と証言活動を続けてきました。ロサンゼルス近郊の自宅とオンラインで結び、話を聞きました。

 人生を大きく変えたあの日。建物疎開(そかい)の片付け作業で鶴見(つるみ)橋西詰(現広島市中区)にいました。当時広島女子商業学校(現広島翔洋高)1年生。作業を始めようという時、飛行機の音がし、空を見上げました。青空に機体が光ってきれいでした。「見てごらん」。同級生に声を掛(か)け、指さした時、何か落ちるのが見えました。同時にすごい圧力で後ろに押し倒(たお)されました。

 意識を失っていたのでしょう。気付いたら辺りは真っ暗でした。逃げる人波に押され、向こう岸の段原国民学校(現南区)へ。瀕死(ひんし)の状態で「千田町1丁目…」と自宅の住所をうわごとのように繰(く)り返していたのを、通りかかった男性が両親に知らせてくれました。被爆から5日目、名前を呼んで捜(さが)す母親に「ここにいるよ」と本当にか細い声で答えたそうです。

 大やけどで顔は腫(は)れ上がり目も口も開かない状態。「真っ黒に焦(こ)げたトーストのようだった」と後に母親から聞きました。「あの時見つけてもらえなかったら死んでいたでしょう」

 自宅では母親が片時もそばを離れず看護に当たりました。家にあった布を裂(さ)いて食用油を付け、次々出るうみを拭(ふ)き取りました。少しずつ回復しましたが、療養(りょうよう)は長引き、復学できませんでした。手の指はくっつき、口も思うようには開かず、不自由になりました。

 何年かたったある日、賛美歌に引かれて立ち寄った広島流川教会(現中区)で谷本清牧師と出会いました。教会にはやがて、顔などにケロイドの残る若い女性が集うようになります。笹森さんは52年、谷本牧師らの尽力(じんりょく)で東京へ行き、引きつった首や手の手術を受けました。

 それからしばらくして、教会で米国人を紹介(しょうかい)されました。後に養父となるノーマン・カズンズ氏です。55年、「機能回復が見込(みこ)める」と選ばれた25人が、医療(いりょう)の進んだ米国で手術を受けることになりました。

 笹森さんたちは現地メディアに「ヒロシマ・ガールズ」として盛んに取り上げられ、身をもって原爆の非人道性を米国の人々に知らせました。

 手術を終えて帰国しましたが、カズンズ氏の支援(しえん)で看護師を目指そうと57年に再渡米します。米国の自由な空気や草の根の温かさに触(ふ)れていたからでしょう。原爆を落とした国に住む抵抗(ていこう)感はありませんでした。

 カズンズ夫妻の養子となって看護の仕事に就き、息子も育て上げました。請(こ)われて学校で被爆体験を語るようになり、その舞台(ぶたい)はいつの間にか米上院や国連、海外へと広がりました。

 若い世代にいつも伝えるのは「命の尊さ」。「命を危険にさらす戦争は絶対してはならない。私が言いたいのはそれに尽(つ)きます」と繰(く)り返し訴(うった)えています。(森田裕美)

谷本清とノーマン・カズンズ

 谷本牧師は敗戦後の1948年、いち早く渡米(とべい)して被爆の実情を訴(うった)えた人です。米国人ジャーナリストのジョン・ハーシーによるルポ「ヒロシマ」で被爆体験を描かれた6人のうちの一人でもあります。

 カズンズ氏は、米ニューヨークの文芸評論(ひょうろん)誌主筆だった49年に取材で広島を訪れ、原爆に親を奪われた孤児らの姿に胸を痛めました。谷本氏とともに、米市民が精神的な親となって生活や学業を支える「精神養子運動」に力を注ぎました。

 「渡米治療」も、カズンズ氏と谷本氏が一緒に取り組んだ支援活動でした。55年5月から翌年11月にかけ、顔や体にケロイドが残る未婚(こん)の女性被爆者25人が米ニューヨークのマウント・サイナイ病院で無償(しょう)の治療(ちりょう)を受けました。滞在(たいざい)中の支援を引き受けたのは「非戦」を誓(ちか)うクエーカー教徒の人たちです。原爆を落とした国での治療に対する批判(ひはん)や「苦しんでいるのは若い未婚女性だけでない」との声もありました。

私たち10代の感想

露の侵攻で増す現実味

 ロシアがウクライナへ侵攻(しんこう)している時でもあり、戦争では兵士も市民も関係なく誰(だれ)もが犠牲(ぎせい)になることに現実味を感じました。笹森さんが繰(く)り返し語った「戦争は絶対にあってはならない」という言葉が今、大きな意味を持っています。いまだにこのようなことを言わなければならないという、世界の現実が変わらなければなりません(高1武田譲)

負の感情が戦争を招く

 原爆でひどいやけどを負った笹森さんが米国を恨(うら)むことをしないのは、「戦争は絶対にいけない」という強い思いからだと感じました。負の感情からは負の感情しか生まれず、それが戦争を招く着火剤(ざい)となるのだと思います。みんなが助け合いながら生きていけるようにする一歩として、私も周りの人と協力して毎日を過ごしたいです。(高1田口詩乃)

 被爆による全身の大やけどを乗り越え、現在も米国で暮らす笹森さん。「原爆に対する恨(うら)みはなく、軽い気持ちで渡米した」と聞き、とても驚きました。もしも私だったら、原爆を落とした超大国に行くことに、強い抵抗(ていこう)を感じると思うからです。「戦争は絶対にあってはならない」と、国内外へ力強く証言活動を続ける笹森さんに勇気をもらいました。私も、被爆者の声に耳を傾(かたむ)け、世界に発信できる人になりたいです。(高3岡島由奈)

 笹森さんの話で最も印象に残ったのは原爆を投下した米国行く時、恨みなどの思いはなく、成り行きだったと話していたところです。米国を憎んでもおかしくないと思いますが、笹森さんの明るい性格もあり、そう思わなかったのかと思います。今も世界では戦争が起こっています。それぞれの国の人々にとって、戦争の相手国への思いは十人十色だと思いますが、笹森さんのように前向きに考えられる人がいたらいいなと感じます。(中2山代夏葵)

 笹森さんは、原爆によってけがを負いましたが、「それが自分」と受け入れています。自らのせいでけがを負った訳ではないのに、こうして向き合っており、強い心の持ち主だと感じました。だからこそ、見た目で人を差別することが許せません。笹森さんの周りは、心配してくれる良い人ばかりだったそうですが、被爆者をはじめ、外見で悩んでいる人が差別された話を耳にします。相手の立場で考えてみてほしい。そうすれば、差別がどれだけひどい行為か分かるはずです。(中3森美涼)

 自然災害のように防げない事があるのに、自分たちで戦争を始めて命を無駄にする行為を、笹森さんは理解できないと話していました。ロシアのウクライナ侵攻のニュースで、市民がとても苦しめられている状況などを見て、戦争は必要ないということをとても強く感じました。笹森さんが何度も話されたように、絶対に戦争はあってはならないと強く思いました。(高3桂一葉)

 笹森さんは今の生活を話すときはとても明るく元気に話してくださいましたが、被爆体験を話してくださるとき、笹森さんの笑顔を見ることはありませんでした。笹森さんは被爆した後、4日間、水も食べ物も口にできないまま、見つけてもらうために住所を言い続けたそうです。生き続けられるのか不安になりながら、住所を言い続けていた当時の笹森さんのことを想像すると、胸が苦しくなります。この取材を通して、人々から笑顔を消してしまう戦争をなくさなければならないと改めて思いました。(高2中島優野)

 今まで何度も被爆体験を聞かせていただいた事はありますが、被爆後に米国へ渡り、ケロイド治療を受けた方のお話を聞くのは初めてでした。何より驚いたのは、米国人の方の反応です。笹森さんに皆優しかったと聞き、やはり戦争をしたい人はおらず、戦争をさせられていたのだと思いました。今、ウクライナで激化している戦争も、世界中の人々で力を合わせれば止められるのではないかと思いました。(中2戸田光海)

 広島に原子爆弾を落とした国に行こうと思った勇気がすごいと思った。爆弾によって傷を負い、つらい思いをたくさんしてきたにも関わらず、やけどの傷を含むありのままの自分を受け入れて、誰に対しても恨む気持ちを持たず、楽しく生活をしていることに、とても感動しました。「戦争をしたらみんなが被害者になる」という恵子さんの言葉から、人の優しさや愛のことをしっかり考えることが、平和への一歩につながるのではないかと思いました。(中3相馬吏子)

 今回の取材で様々な視点から物事を見ることが大切だと感じました。笹森さんは、原爆投下後に全身の約4分の1をやけどし、今でも痕が残っています。米国を憎んでもおかしくなかったと思いますが、笹森さんが出会った人はいい人ばかりだと何度も言っておられました。私は今まで被爆者のだいたいの人は、米国人を憎んでいると思っていました。実際はいろいろな受け止めがあると知りました。自分の思いだけでなく、他の人の考えも聞きながら行動することが大切だと思いました。(中2山下裕子)

 ◆「記憶を受け継ぐ」のこれまでの記事はヒロシマ平和メディアセンターのウェブサイトで読むことができます。また、孫世代に被爆体験を語ってくださる人を募集しています。☎082(236)2801。

(2022年4月18日朝刊掲載)

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