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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <2> 子ども時代

軍都広島の良き思い出

  ≪父久吉さん、母芳子さんの長男として広島県大崎上島町に生まれた≫

 私が教員になったのは父の影響が大きい。愛媛県今治市の小学校の教員だったんです。子どもがいない大崎上島の遠縁を継ぐため母が養子になり、父はそこに婿入りした。島と今治を行ったり来たりしとったようです。最初は理科を教えていたが、日本史も好きでね。古文書を学ぶうち、書に関心を深めたらしい。後に自宅でも大勢の子どもを教えとりました。

 父は厳しくはないが教育熱心でした。母はね、優しかったし、きれいじゃったと思いますよ。島でも美人で通っとったみたい。父が大芝(広島市西区)の小学校に勤めることになり、私が四つになる頃、一家で広島市に移ったんです。

 ≪引っ越した先は、今の中区西白島町。旧日本陸軍の施設が集まる基町に近く、「軍都広島」を象徴するエリアだった≫

 去年の秋、輜重(しちょう)隊(旧陸軍の輸送部隊、中国軍管区輜重兵補充隊)の施設跡地の見学会に行ったんです。ほら、サッカースタジアム建設地で遺構が見つかったでしょう。歩いて回るのはえらかったが、懐かしくてね。自宅は、あのすぐそばだったんです。

 両親と妹2人、それに一緒に移住したおばあさんとの6人暮らしでした。私が白島小に入ったのが、日中戦争が始まった1937年。家の前を毎日のように兵隊が行き来してね。電話線みたいものを手に走る姿を見たのも覚えとる。戦地で電話をつなぐ訓練でしょう。通りには軍馬のふんもよう落ちていましたね。

 広島には全国から兵隊が集められた。宇品港(南区)から出兵するのを待つ間、市内の一般家庭で彼らを泊めるんです。うちにも来ましてね。私は身内に軍人がいないことにコンプレックスを感じていた時期もあった。だから、食事や風呂を提供するのも何だかうれしかったです。

 太平洋戦争が始まる前はまだ、自由な雰囲気でしたよ。基町の陸軍病院へ友達と遊びに行って麦飯を食べさせてもらったことがある。今の旧市民球場跡地(中区)一帯にあった西練兵場では祭りが開かれ、サーカスやバイクレースなんかも来た。いい思い出です。

(2022年4月20日朝刊掲載)

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