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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <3> 一中入学

日常に戦争組み込まれ

  ≪1941年12月8日、旧日本海軍がハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる。小学5年の冬だった≫

 ラジオを聞いていた父が興奮気味に叫んだのを覚えています。「やった!」と。あの頃からかな。私も毎朝、今の旧市民球場跡地(広島市中区)辺りにあった広島護国神社にお参りしとった。戦勝祈願ですよ。

 思えば当時、私たちの日常にはどっぷり戦争が組み込まれていました。南京が陥落した時は、私もちょうちん行列に加わった。学校では歴代天皇の名前を暗唱させられたし、運動会では競技に戦車の模型が使われた。軍歌もよく歌った。父も私も日本の勝利を信じていたんです。

 ≪白島小から広島一中(現国泰寺高、中区)に進んだ≫

 まあ鍛えられましたよ。先生方が怖くてね。遅刻したら殴られたり、竹ぼうきの枝の先で頭をこつんこつんとたたかれたりする。私は小さい方だったから、荷物を必死に抱えて毎日、駆けるように登校していました。配属将校もいてね。木銃を手に軍事教練をするのもやねこかった。

 勤労奉仕も増えていった。最初は農家の手伝いが多かったね。麦を刈ったり、可部(安佐北区)の寺に泊まり込んで、田畑の水はけをよくする作業を手伝ったり。楽しみだったのは吉島飛行場(現中区)の整地作業です。草をぬかで練ったような団子が出たから。おいしいもんじゃないが、おなかは膨れました。

 食糧事情は、そりゃあ悪かった。トウモロコシやサツマイモばかり食べとりました。ある時、母が言ったんです。「こんなに生活が苦しかったら日本は負けるね」と。忘れもせん。私は「お母さん、そんなこと言うもんじゃないよ」なんて言い返したんだ。偉そうにね。

 ≪3年に進級する頃から、広島県府中町の東洋工業(現マツダ)に通うようになった≫

 入所式なんか開いてもらってね。晴れがましかった。戦闘機のピストンや銃を作るんです。が、そのうち材料もなくなってきた。3年の夏には、班ごとに交代で建物疎開に出ることになりました。建物の柱に綱を結び、わっしょいわっしょい引きずり倒す。防火帯を作るんです。45年8月6日は、その当番日でした。

(2022年4月21日朝刊掲載)

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