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連載・特集

ビキニ被災50年 第2部 焼津から <1> 太陽 波乱の幕開け 恐怖の光

 一九五四年三月一日、米国がマーシャル諸島のビキニ環礁で実施した水爆実験「ブラボー」は、島民たちだけでなく、付近で操業していた静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船第五福竜丸の乗組員二十三人にも「死の灰」を浴びせた。間もなく母港に帰ってきた彼らにとって、それは波乱の半世紀の幕開けであった。(森田裕美)

 満天の星が輝いていた。波穏やかな太平洋の空に、さそり座のアンタレスが、ひときわ赤い。「福竜丸の守り神と決めていたから、いつものように安全を祈った。その瞬間だ。西からさーっと、太陽が上がったのは」

 焼津市の自宅で「第五福竜丸」の元乗組員、見崎吉男さん(78)は言葉を選びながら、五十年前を語り始めた。

 「最初は薄い黄色の太陽がやがて、紅蓮(ぐれん)の炎となった。恐ろしく、圧倒的。最後に、薄いれんが色の火球が残った。羅針盤で方位を測定したら、ビキニだった」

原爆だと直感

 米国は一九四六年、ビキニ環礁を核実験場に選び、その年に二回、実験した。しかし、四八年、さらに北西のエニウェトク環礁を実験場にしてからは、見崎さんたちが「太陽」を見た水爆実験まで、ビキニを使っていなかった。

 「やー、しまった」。見崎さんは、原爆だと直感したという。船の総責任者である漁労長だった。約百六十キロ西のビキニ環礁から間もなく、すさまじいごう音が襲ってきた。エンジンをかけ、非常態勢を取るよう指示した。

 空は雲に覆われ、しばらく「粉」が降り続けた。「顔や耳に当たってずきずき痛い。つまんだり、こすったり、なめたり、コップの水に入れてみたりもした」。広島原爆の千倍の威力で巻き上げられたさんご礁の破片は、放射能を帯びていた。

 焼津に帰ったのは二週間後の十四日。すぐに、二十三人の被曝(ひばく)は、世界に報じられた。

 見崎さんたちは、やけど状の症状を訴えた。髪の毛が抜けた人もいた。ただちに入院させられた。マグロからも放射能が検出された。それも第五福竜丸だけではなかった。日本中で大量のマグロが廃棄され、世間は大パニックになった。

 半年後、無線長だった久保山愛吉さんが死亡した。

 以来、第五福竜丸はビキニ被災の象徴であり、事件を機に沸き起こった原水爆禁止運動のシンボルとなった。報道は過熱し、映画にもなった。

世間には偏見

 乗組員たちは逆に、口をつぐんだ。世間では放射線障害への偏見があった。米国からの補償金を受け取ったことで、周囲のやっかみもあった。

 見崎さんも、就職には苦労したという。根っから好きな海に戻りたかったが、過酷な遠洋航海は医師から禁じられた。履歴を明かさずに町工場にパートで勤めたり、総菜店を営んだりしてきた。

「漁士」の誇り

 「出しゃばるもんじゃない」と思ってきた。しかし最近、体験を語る機会が増えた。「これまでの(人生の)航海を軌道修正したい」。乗組員たちの半世紀の人生が事件でゆがめられたと思うとき、漁労長としての責任を感じるからだ。自分たちは「漁士(りょうし)」だと思ってきた。その誇りを傷つけられたくはない。

 大きな病気もない。「心配していたら何年たっても、普通の市民になれんのです。ヒバクシャではない、一市民を貫きたい」。きっぱりとした口調に哀愁がのぞいた。

(2004年2月24日朝刊掲載)

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