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連載・特集

ビキニ被災50年 第2部 焼津から <2> 決着 慰謝料で「事件にふた」

 東京都内で二十一日あったビキニ被災五十周年の研究集会。研究者たちの意見交換を傍聴していた第五福竜丸の元乗組員、大石又七さん(70)=東京都大田区=は、司会者から突然、発言を求められた。慌てて立ち上がり、短く訴えた。

半数以上他界

 「事件はまだ、終わっていません」

 五十年前、太平洋でビキニ水爆実験の「死の灰」を浴びた乗組員は、大石さんたち二十三人。うち半世紀を生き延びたのは十一人。

 半年後に死亡した無線長の久保山愛吉さんは「放射能症」と診断された。その久保山さんも含め、亡くなった乗組員はほぼ全員、肝臓障害や肝臓がんを患った。

 生存者の多くもC型肝炎を発症している。被曝(ひばく)後の治療で受けた輸血が原因とされる。大石さん自身もC型肝炎が慢性化し、一九九三年、肝臓がんを手術。「事件」が今に続くことを、病が証明する。

 乗組員たちに、広島や長崎のような被爆者健康手帳はない。病気になると、一般の労災に当たる船員保険の再適用を申請し、自己負担分が給付される制度はある。

 しかし、第五福竜丸の乗組員で再適用を受けたのは、大石さんを含め二人だけ。国などが積極的に勧めることはなかったし、世間から身を隠すように生きてきた乗組員の多くが申請に消極的だった事情もある。

 「ビキニといえば、福竜丸が死の灰を浴び、愛吉さんが亡くなった。そんな過去の出来事だと、みんな思っている」

 世間の記憶が薄らいだのは、事件が政治的に「解決」したことも背景にある。日米政府は五五年、米国側が二百万ドル(当時のレートで七億二千万円)の慰謝料を支払うことで政治決着。多くは事件を機に急落したマグロ価格の損失補てんに使われ、乗組員には一人平均二百万円が支払われた。「ふたをされた」と大石さん。

古里を離れる

 労働者の月給が三万円程度だったころ。「焼津に被害を持ち込んで、金をもらうなんて」。伝え聞いた知人のねたみに、大石さんは傷ついた。

 そんな視線に耐えかね、上京してクリーニングの仕事を始めた。「私は逃げ出した。地元に残った人ほど、いかに自分の存在を小さくするか、今も苦しんでいると思う」

 大石さんは、「そっとしておいてくれ」との仲間たちの無言の圧力を感じながらも、平和集会などで積極的に発言してきた。「話さずにすむなら話したくない。でも、事件の教訓を封じ込めたら、人間はまた同じ目に遭いますよ」

世界核拡散へ

 核抑止力や核テロの言葉で語られる核の脅威。「ビキニ」以降の世界は、核を否定せず、むしろ拡散へと走る。そんな世界情勢も大石さんには、「事件の延長」と思えてならない。

 三月中旬、核実験が繰り返された太平洋を非政府組織(NGO)の船がたどる。その船上で大石さんは再び、この半世紀を証言するつもりだ。

(2004年2月25日朝刊掲載)

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