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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <4> 原爆さく裂

熱さ まるで溶鉱炉の中

 1945年8月6日は月曜日でした。私はその数日前、医師から「かっけじゃ」と言われ、1週間休むよう診断書を出されたばかりだった。でも父から、週明けは登校し、翌日から休むと伝えてくるよう言われていたんです。あの時は嫌だったが、それが良かった。自宅におったら、私は下敷きになって死んどったかもしれんのだから。母と一緒にね。

 あの日、いやいや家を出た私を、母は見送ってくれました。玄関隣の部屋の格子戸から、いつまでも哀れむような顔で。今でも忘れません。

  ≪作業現場は爆心地から約1・5キロの鶴見橋西詰め(広島市中区)。約70人の同級生が集まった≫

 横川駅(西区)から列車に乗った。実は建物疎開を忘れて、東洋工業(現マツダ、広島県府中町)に行こうとしとったんです。乗車中に警戒警報が鳴って一時停車した時、市内に行くんだと思い出した。広島駅(南区)で慌てて降りて、居合わせた同級生たちと歩いて向かいました。太陽がギラギラ輝いてね。「泳ぎたいなあ」なんて話していたんです。

 原爆がさく裂したのは全員で整列し、作業上の注意を受けていた時です。突然、世界が真っ赤になった。巨大な溶鉱炉に投げ込まれた感じ。その瞬間、私は顔と手足を焼かれていたんです。そして爆風。とっさに伏せたと思うが、地面にたたきつけられて意識を失ったのかもしれん。

 とにかく熱かった。周りにつられて川へ向かいました。水に浸ったのか、河原に座ったのか分からない。ただ覚えているのは、人々のうめき声がまるで蚊の群れがわーんと鳴くように聞こえてきたこと。太陽は消え、冬空のように真っ暗でした。

 そして友人の一人に声を掛けられたんです。「わしの顔、どうなっとるや」と。「ずるむけて皮膚が垂れとる」というようなことを答えました。きっと自分も同じだったんでしょうが、己を顧みる余裕もなかった。痛みも感じていませんでした。

 しばらくして、人の群れを追って比治山へ逃げました。崖をよじ登り、たどり着いた山の上から市内を見渡したら、街全体がやられとる。あちこちからパッパッと火の手が上がる様子をただただ、ぼうぜんと眺めるほかなかったんです。

(2022年4月22日朝刊掲載)

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