宇品港築いた千田貞暁顕彰 南区の銅像前で2年ぶり式典 直筆の手紙披露も
22年4月24日
広島市の宇品港(現広島港)建設に尽力した県令(知事)の千田貞暁(1836~1908年)をしのび、築港を祝う式典が23日、南区の千田廟(びょう)公園の銅像前であった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2年ぶりに命日に合わせて開催。地元住民でつくる顕彰会のメンバーや県、広島市の関係者たち約80人が参列した。式典後、千田直筆の手紙も披露された。(明知隼二)
宇品港は1889年に完成。式典では松井一実市長や湯崎英彦知事がメッセージを寄せ、築港を「広島が中四国の中枢都市となった原点」などと功績をたたえた。続いて隣接の社で顕彰祭も営まれた。
参列した千田のやしゃご、篠田正志さん(48)=東京=は「地域の皆さんに語り継いでもらえるのは本当にありがたい」と感謝した。この日は、築港工事を請け負った服部長七(1840~1919年)のひ孫、憲明さん(74)=愛知県岡崎市=も初めて参列。「現代では想像もつかない大変な苦労があっただろう」と先祖の仕事に思いをはせた。
式典と祭事の後、近くの市郷土資料館で、現在の鹿児島県出身の千田が同郷の知人に宛てた直筆の手紙2通が関係者に披露された。知人のひ孫、柴彰彦さん(75)=佐伯区=が保管していた。内容は知人家族の訃報に接しての悔やみなどで、やりとりの正確な時期は不明だが「千田貞暁」の署名が確認できる。同館の稲坂恒宏学芸員は「広島は戦前の資料は原爆で失われているケースが多く、手紙は保存状態も良く貴重な資料だ」としている。
宇品港
1880年に県令に着任した元薩摩藩士の千田貞暁が産業発展のため発案。漁業者の反発や資金不足を乗り越え89年11月に完成したが、千田は同年12月、落成式を待たず新潟県転任を命じられた。当初は規模に見合った利用がなく事業の評価は低かったが、94年に始まった日清戦争以後、軍が兵士を海外に送り出す拠点となった。
(2022年4月24日朝刊掲載)
宇品港は1889年に完成。式典では松井一実市長や湯崎英彦知事がメッセージを寄せ、築港を「広島が中四国の中枢都市となった原点」などと功績をたたえた。続いて隣接の社で顕彰祭も営まれた。
参列した千田のやしゃご、篠田正志さん(48)=東京=は「地域の皆さんに語り継いでもらえるのは本当にありがたい」と感謝した。この日は、築港工事を請け負った服部長七(1840~1919年)のひ孫、憲明さん(74)=愛知県岡崎市=も初めて参列。「現代では想像もつかない大変な苦労があっただろう」と先祖の仕事に思いをはせた。
式典と祭事の後、近くの市郷土資料館で、現在の鹿児島県出身の千田が同郷の知人に宛てた直筆の手紙2通が関係者に披露された。知人のひ孫、柴彰彦さん(75)=佐伯区=が保管していた。内容は知人家族の訃報に接しての悔やみなどで、やりとりの正確な時期は不明だが「千田貞暁」の署名が確認できる。同館の稲坂恒宏学芸員は「広島は戦前の資料は原爆で失われているケースが多く、手紙は保存状態も良く貴重な資料だ」としている。
宇品港
1880年に県令に着任した元薩摩藩士の千田貞暁が産業発展のため発案。漁業者の反発や資金不足を乗り越え89年11月に完成したが、千田は同年12月、落成式を待たず新潟県転任を命じられた。当初は規模に見合った利用がなく事業の評価は低かったが、94年に始まった日清戦争以後、軍が兵士を海外に送り出す拠点となった。
(2022年4月24日朝刊掲載)