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連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <5> 必死の避難

家も焼け修羅場の連続

  ≪西白島町(広島市中区)の自宅を目指し、比治山を離れた≫

 山の上で兵隊の行列に遭遇したんです。皮膚が雑巾のように垂れた腕を前に突き出し、ぞろぞろ歩いていた。私も事の異常さをようやく実感し、午前のうちに動き始めました。下山中、やけどが痛みだしてね。防火用水を見つけては持っていた手拭いを浸し、体に当てて歩きました。白島に渡る橋にたどり着いたが、熱くて渡れない。中州に降りると、そこには修羅場が待っていました。

 息絶えた男性に泣きすがる女性と子ども。広島駅の方から担架で運ばれてきた女性職員は、頭から血をかぶったようでした。軍刀を地面に突き刺し、気が狂ったようにわめく将校もいた。川面には力尽きた人々が無残な姿で浮いていました。

 そこに兵隊が来て、河原は機銃掃射されやすいから逃げろと言う。広島駅の裏の山手に足が向きました。人波を追いかけ、救護所に行きましたが、赤チンと油を塗ってもらっただけ。そこで兵隊さんから「君のけがはまだ軽い。連れて逃げてやってくれ」と、背中全面を大やけどした男の子を託された。崇徳中の1年だと言っていました。

 その間も駅の方が突然、煙を上げて猛烈に燃えたりする。収まるのを待ち、2人で歩き始めたのは夕方でした。私は顔が膨れ上がり、片目がつぶれて見えなかった。枕木がくすぶる鉄橋を恐る恐る渡りました。

 ≪自宅は焼け落ちていた≫

 もう跡形もない。ちょうず鉢だけが突っ立っていました。近所のおばさんが「お母さん、きっとどこかに逃げとってよ」と声を掛けてくれましたが、喪失感しかありませんでした。

 その足で横川(西区)の救護所に向かったが、死体が積まれ、すごい臭い。慌てて飛び出し、今の安佐南区の方を目指しました。列車が動いていると聞いたんです。とぼとぼ歩いていると、沿道の家から人が飛び出してくる。わが子じゃないと分かると、さも残念そうに離れていくんです。ようやく古市橋駅辺りで列車に乗った。私は川内に父の教え子がいるのを思い出し、緑井駅で列車を降りました。男の子とは車中で別れたきりです。助かっていたらいいがなあ。

(2022年4月23日朝刊掲載)

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