×

連載・特集

『生きて』 被爆教師 森下弘さん(1930年~) <6> 療養生活

復学するも心身癒えず

  ≪被爆した日の夜、川内(広島市安佐南区)の知人宅に運び込まれた≫

 力尽きて畑に倒れていたところを誰かが見つけてくれたらしい。高熱でうわごとばかり言っていたとか。父が捜し当ててくれました。

 父は当時、市立造船工業学校(現市立広島商業高)の教員でね。6日は生徒を引率し、己斐(西区)の寺にいたらしい。三篠(同)の軍靴工場に動員されていた上の妹も、飯室(安佐北区)に疎開中だった下の妹も無事。母だけが自宅で犠牲になった。40歳でした。数日後、父が骨を拾ってきたが、私は感情がまひしていたのか涙も出なかった。悲しみが押し寄せるのは少し後のことです。

 しばらく知人宅で療養を続けました。顔や手足から血うみが垂れるからあおむけに寝ておくしかない。河原で死体が焼かれていると聞くと、次は自分かと不安でね。被爆したものの無傷だった叔母は、私を見舞った後に口から黒い泡を吐いて亡くなったらしい。放射線の怖さですね。父は傷に効くと聞けば何でもしてくれた。キリを焼いた粉を油で練って塗ったり、おきゅうを据えたりね。

 終戦を知って感じたのは悔しさでも怒りでもない。私はほっとしたんだ。だって空襲警報が鳴っても、みんなと一緒に防空壕(ごう)に逃げ込むこともできん。布団をかぶって寝ておくことしかできなかったんですから。

 やっと傷が癒えてきても鏡だけは誰も見せてくれなかった。翌年の春と夏に1度ずつ、広島逓信病院(中区)でケロイド手術を受けたが、顔から首にかけてひきつれが残り、左耳は大部分が縮んでなくなってしまった。やはり、きつかったです。子どもは遠慮なくじろじろ見る。「見るなや」とも言えないですもんね。

 ≪翌1946年春に復学した≫

 その冬は北広島町の親戚方で越した。翌春、江波(中区)の陸軍病院分院に同級生が集ったんです。普通は「生きてて良かった」と喜び合うのかもしれん。私はやりきれず、狂ったようにわーっと叫びたかった。戦中は天皇陛下のためにと、何でも耐えられた。でも日本は負け、天皇は「人間」になった。私たちは精神的なバックボーンを失ったんです。

(2022年4月26日朝刊掲載)

年別アーカイブ